なつかしの昭和プロレスラー:坂口征二

bqsfgame2012-01-30

1942年生まれの代表選手に坂口征二がいる。
坂口征二は、東京オリンピック後に打倒ヘーシンクを大命題とした日本柔道界の切り札的存在だった。オリンピックの翌年の65年の日本選手権チャンピオンとなり、世界選手権でヘーシンクと戦った。結果は、判定で惜敗。ヘーシンクがそのまま引退してしまったため、坂口は目標を失ってしまう。
1967年に日本プロレスに入団。エリート扱いですぐにアメリカ遠征に出る。帰国後は、馬場、猪木に次ぐナンバー3としてポジションを獲得した。
猪木追放事件の乾杯写真では、馬場が雲隠れしていたため中央で杯を上げているのが映っている。猪木に代わって馬場のパートナーとなり、赤のウェアの大型レスラーコンビで東京タワーズを名乗って活躍した。こうして見ると、当時から坂口は馬場とのパイプラインが太かったのだと思う。
馬場が全日本プロレスを作って独立すると、大木と二枚看板で末期の日本プロレスを支えることになる。しかし、視聴率は低迷し、日本プロレスの内部は問題山積でガタガタに。かくて坂口は、新日本プロレスとの合流の道を模索し始めたが、これを大木が咎めて坂口は結局、追放されるかのようにして数名の若手を連れて新日本プロレスに合流した。
ちなみに、この合流の時の条件で、「坂口と猪木は対等」と言うのがあったのだが、後の新日本プロレスを知る人でこれが守られたと思う人はいないだろう。
いずれにせよ坂口合流までノーTVで倒産寸前だった新日本は息を吹き返し、その意味では坂口は新日本プロレスの救世主となった。
しかし、坂口のポジションは常に猪木のサポート役に留まり、北米タッグや、北米シングルのベルトを巻きはしても、どこか脇役然としていた。
やがて若きヒーロー藤波に、ナンバー2の座を自然禅譲し、ビジネスマンとしては問題の多かった猪木に代わって社長の地位に付く。社長としては非常に優秀だったと言われ、80年代前半のプロレス黄金時代以後の低迷期の新日本をなんとか切り盛りしていった。この時に坂口の人物としての評価の高さ、ライヴァル団体の馬場とのパイプの太さなどが、大いに貢献したことは間違いない。かくて坂口は、再び新日本の救世主となった。
プロレスラーとしての評価は、残念ながら人間性やビジネスマンとしての力量で決まる訳ではない。その意味で坂口の評価は名脇役としか言い得ない。だが、ミスター高橋が坂口最強説を唱えたりするなど、坂口は実力的にもかなりの物を持っていたとする説が現在では有力である。
なにより上述の通り、坂口なくして新日本プロレスと言う団体は現在まで継続し得なかったと思われる。新日本プロレスと言う舞台があってこそのアントニオ猪木だと言うことは指摘しておかなければならないだろう。