戦術の変化

bqsfgame2009-01-06

リンカーンが政治的に必要としたものが現場的に得られなかったことについては、この戦争が戦術の変化の時期に当っていたことも関連しているように思われる。
ナポレオン戦争のように、騎兵突撃が勝者の成果を拡大し、その後の追撃戦が敗者に決定的なダメージを与える戦争は終わりつつあった。銃砲の性能向上で、突撃時の攻撃側の損害は甚大なものとなり、このことを背景に防御側は壕や逆茂木を利用した防御陣地を構築して、さらに防御射撃の成果を拡大するようになった。結果として、戦場では攻撃側のリスクが高まり、準備の時間を与えられた防御側の優位は拡大していった。
この成果は次の第一次世界大戦では完成されたものとなり、かくて延々と続く塹壕戦が主戦線の日常風景となり、正面突撃という選択肢は消えていくことになる。
こうした状況の変化は、日々、現場で戦闘を続けている将軍たちには程度の差こそあれ認識されていたと思われる。不幸にして南北戦争の指揮官たちの多くは、ウェストポイントでナポレオン戦争をベースにした教本で学び、米墨戦争に従軍したので戦争の初期には旧来の戦術で対処しようとした。その中で、現実に対してパラダイムシフトをすることのできる将軍が、塹壕戦の威力を理解して、それを運用するようになっていったのではないだろうか。
塹壕戦の威力を最大限に生かすためには、自軍は適切な防御位置を先に占拠し、そこで防御陣地を構築して敵の攻撃を待つことが必要である。つまり、「敵が攻撃しなければならない位置」を見出して、そこを逸早い機動で占拠することが肝要である。次に、防御陣地の構築技術、敵の正面攻撃に突破されないための予備兵力の配置などが重要となってくる。
ボビー・リーは、その大胆な攻撃的な機動で賞賛されるが、実際のところ前述したリンカーンとマクレランのような関係で、政治的なプレッシャーから北部侵攻を計画せざるを得なかったのではないかと言う気がする。彼自身は、工兵隊の親分と部下から揶揄されるほどに、防御陣地の構築技術を高めることに関心があったようであり、その成果はオーバーランド戦役のクライマックスであるコールドハーバー戦で十二分に発揮されることになる。つまり、南北戦争の中盤以降においては、塹壕戦の威力に勝るものなしということは、現場レベルでは両軍共に認識していたのではないか。