ユーロゲームもウォーゲームに近付いていないか?

そう考えていくと、最近のユーロゲームも、かなりウォーゲームに近付いてきているように思う。
つまり、「ある程度の労力負担をプレイヤーに求めても支障はない」ことが前提となり、「初回のプレイでは指針が見えず醍醐味に触れられないようなものであっても許容される」ことがデザインサイドからも共通認識となり、むしろ積極的に「何回もプレイしないと醍醐味に触れられないようなゲームが、ゲーマーズゲームとしては価値が高い」と評価されるような土壌になってきたのではないかという気がする。
これをゲームシステムの進化と呼べば呼べるし、進化の袋小路と危惧するのも一理も二理もあると思う。
ウォーゲームは実際にそういう行程を辿る中で、大幅にプレイヤー人口を減らした。それが良かったかどうかは人によって評価が異なるだろう。プレイ相手を見つけにくくなったと言う弊害の一方で、互いに一定の労力を越えてゲームをプレイする同志であることが期待できるようになったと言う利点もあるからだ。
ただ、飽くまで個人的な意見ではあるが、ユーロゲームが同じ道を辿るのには賛成しかねる。ユーロゲームは、ファミリーゲームとして、ゲーマーでない人とも遊べるし、そういう一度しか同じゲームをやらない人にも一回目で楽しさを感じてもらえるのが良い点だったと思っている。
近年のユーロゲームは、そうした部分が失われてしまっており、ホームパーティーの席で出すゲームをどれにしようかと考えると、結局、80年代から90年代前半のゲームを押入れから引っ張り出すことになるような現状は結構、痛いような気がする。
特に昨年は、「アグリコラ」や「ブラス」など、そういう弊害を強く感じさせるゲームが続いた。後半に出たスマッシュヒットである「ドミニオン」にしても、ゲーマーでない人にいきなり説明して遊ぶのにセレクトできるかと言うとNOだった。トレーディングカードゲームブームを一緒に経験し、その労力と出資の負担に耐えかねて脱落した同世代のゲーマー同士で遊ぶと、手軽にトレカの醍醐味を再現してくれる部分が嬉しいというのが本音だろうか。
進化=複雑化の過程は、適応能力の低下という弊害を伴うというのは、ゲームの世界でも成り立っており、それはウォーゲームに続いてユーロゲームでも繰り返されるのだろうか。