なつかしの昭和プロレス:2本のNWAジュニアヘビーのベルト

bqsfgame2011-07-31

NWAは、当時の世界最大のプロレス団体だった。しかし、プロモーターたちの連合組織であるNWAには、いろいろな政治的な事情があった。この話しは次の機会にNWAタッグ王座の話しをすると、いろいろなことが浮き彫りになってくるので深くは突っ込まない。
NWAが認定するジュニアヘビー級王座は、ヘビー級王座と同様に単一であることになっていた。ところが、実体としては2本の王座が存在していた。
1979年12月に、藤波のライバルの一人であったスティーブ・カーンは、チャボ・ゲレロとの王座決定戦に勝利してNWA世界ジュニアヘビー級王座に就いた。
翌年の2月に来日したスティーブ・カーンは、この王座を藤波に奪われてしまう。これにより藤波は一時的に二冠王になったのだが、二本の王座の管理団体が異なることから、防衛戦は別々に行われた。
このNWA王座は、藤波の故障により王座決定戦に回り、木村健吾ブレット・ハートの間で争われ、木村が戴冠することとなった。プロレス解説者の間では、木村はこの時に藤波をキャッチアップし掛けたと言う人もいる。
しかし、3ヵ月後には木村はチャボ・ゲレロに破れて失冠。以後、藤波の後塵を拝し続けることになった。
ここからベルトは迷走する。チャボ・ゲレロを敵地テキサスで破って戴冠したのは全日本プロレスの若手、大仁田厚だった。大仁田は、帰国前に立ち寄ったメキシコで覆面時代のサングレ・チカナに破れて一時的に失冠し、リターンマッチで奪回して帰国した。
この頃のサングレ・チカナは全盛時で、この時に飛来して日本で戦って欲しかったと言う声を今でも聞く。以前にコバルデの項で書いたが、チカナはコバルデやフィッシュマンに負けて素顔になる。
画像は若い頃のチャボ。カッコ良かったよね。小さな巨人のニックネームは伊達ではなくヘビー級とも渡り合いました。WWEで息子の応援に出てくると、ただのハゲオヤジになっちゃたもんなぁ‥(^_^;