なつかしの昭和プロレス:長州力

bqsfgame2013-02-02

鶴田と同じ1951年生れ。
彼もミュンヘンオリンピックレスリング代表だが、日本のではなく韓国のである。これはオリンピックの公式の記録にあることなので別に秘密ではないが、長州の人気絶頂時には余り広くは認識されていなかったかも知れない。
新日本プロレス入りしたが、同じキャリアの鶴田をライヴァル視していた。しかし、最初から準エース級だった鶴田と違い、長州は新日本のヘビー級では猪木、坂口、小林に次ぐ4番手。人気の面ではジュニアヘビー級で新しいジャンルを切り開いていた藤波や木村の後塵を拝していた。
坂口、小林の北米タッグ王座が流出した機会に、坂口の新パートナーとなりヘビー級3番手に浮上したが、それでも人気面では余り進歩が見られなかった。
IWGPを翌年に控えた最後のMSGリーグ戦では、絶不調を極め、新人の谷津よりも下の順位に甘んじた。既にタッグ王座経験者だったが、あまりの不調ぶりを見かねたのか海外修行に出される。この時に新日本と関係の深かったカネックのUWAに行き、UWA王座を奪取したのがマインドセットの転換点になった。UWA王座は非常にお騒がせの王座で、タイガー・ジェット・シンが取得して日本に上陸し猪木と争ったことのある王座。長州にしてみれば、「猪木が締めた王座を自分も締めた」わけであり意識が大きく変わったのも無理はない。長州は王座を締めて凱旋しようとしていたが、帰国直前にカネックにリターンマッチで敗れて果たせなかった。
いずれにせよ意識革命を果たした長州は新日本マットで有名な噛ませ犬発言で大ブレークし、藤波との名勝負数え歌を開始する。ちなみに「噛ませ犬」発言は名アナウンサー古館の脚色らしく、実際には「なんで俺がお前(藤波)の前を歩かなきゃならないんだ?」と言う花道入場時の発言だったと言われる。
反旗を翻した長州に、新国際軍団として手詰まりに陥っていたアニマル浜口が共闘。二人は渡米してマサ斉藤のアドヴァイスを求め、こうして革命軍、後の維新軍は勢力を拡大していった。
いずれにせよ長州が藤波をフォールしてWWFインター王者を奪取したのは昭和プロレス屈指の名場面であったことは疑いない。
その後、猪木の時に書いたような新日本の経営上の問題もあり、ジャパンプロレスを形成して全日本マットへ。そこでも日本人同士の対決をヒートアップさせ、昭和プロレスの全盛期を作り上げた。
昭和プロレスのキーマンの一人であることは疑いないが、個人としての評価は様々である。ジャパンプロレスから新日本への逆流時に谷津らを同道しなかった事情は不透明だし、そもそも逆流自体が当時のプロレス界のモラルとしてどうかと言う疑念もある。
また、経営手腕に対する疑問、金銭に関する問題、離婚時に浮上した家庭内暴力、団体内での暴言など、いろいろと良くない噂の多い選手の一人であることは間違いない。もっとも、東京プロレス豊登、新日本の猪木と金銭的なトラブルメイカーの系譜はプロレス業界では繋がっており長州一人の問題ではないとも言える。
個人的には、リング外のことは置くとして、日本人選手相手の戦いで黄金時代を築いた一方で、外国人大型選手相手には今一つ説得力のあるファイトを展開できなかった側面が物足りなく感じられる。サルマン・ハシミコフからIWGPを奪回した試合では、コーナーに振られた後、突進してくるハシミコフのボディを蹴ろうと足を上げたが上がり切らず急所に入ってしまった。急所を押えて痛がるハシミコフに対してラリーアートを見舞ってフォールしたが、非常に後味が悪かった。翌日、プロレスファンの友人が、「急所蹴りで勝ってガッツポーズされてもなぁ‥」とボヤいていたのを記憶している。