戦闘機:第三部:兵器を読む(引用)

p173

ゲーリングの片腕のミルヒとメッサーシュミットとの確執は遠く1931年にさかのぼる。メッサーシュミット旅客機の墜落事故があり、その死者の一人にミルヒの莫逆の友がいたのである。ミルヒはルフトハンザ社の副社長であり、旅客機を注文したのも彼であった。結果は発注仕様書に欠陥があることが判明しことなきを得たが、怨恨だけは残った。

p193

スピットファイアの高性能の秘密となった楕円形主翼について(中略)。

楕円翼に切り替えるにいたった真のきっかけは、仕様書の武装要求に沿わんがためにすぎない(中略)。

楕円翼への変更はさして大ごとには思えないかもしれないが、三次元曲面をもった楕円翼の大量生産はそれこそ至難中の至難であった(中略)。

だが得られたメリットは、生産の困難さをはるかに上回った。

p198

この地上用火器(20ミリ機関砲)の機上用への改造は画期的な成功を収め(中略)、

避けられぬ短所も(中略)、発射初速は他の同サイズの火器に比べてひどく低いものになってしまった(中略)。

ドイツの専門家は、空対空戦闘はおおむね近接した距離で行われるので短所としてあげつらうべきものではないと強弁していた。

いざバトルオブブリテンに際会すると、この貧弱な初速はドイツ空軍側の最大の弱点であることが露呈されてしまった。

p199

イギリス側の火器が完全無欠であったわけではない。戦闘機対戦闘機の空戦では火力不足を感じるようなことはなくてすんだが、爆撃機のような多座の大型機を相手にするようになると事情を異にするようになった。

p207

気化器の欠点の中でも最悪なのは、混合気供給の機能が加速度の影響を受けてしまうことであった。ヘッドオン操作で機体を急降下に入れようものなら、たちまちエンジンが息をついたりするのである。これに懲りていたイギリス空軍パイロットは、急降下する前にまず半横転してから急降下に入れるという方法をとっていた。しかし、食うか食われるかの空中戦で手間を食う戦技をやっていたのでは‥。

p228

1930年代も終りを迎えようとすると、ドイツは電波による探知に関してはイギリスよりもはるかに進歩した電子兵器を実用に供した(中略)グラフシュペーは、早くも1937年に艦砲射撃用の標定レーダーを装備して就役したのである(中略)。同艦がラプラタ沖で自沈したときにはイギリスから専門家が派遣され(中略)。本国のイギリスではドイツ人風情が進歩したレーダーを実用にしていると認容するものは稀で‥。

p233

何とか役に立ちそうなレーダー開発が続けられている事実上唯一の場所だったボーゼイに集まった者たちの合言葉は、「今すぐ、次善のものでよいから作り出そう(セカンドベスト、トゥモロウ)」だったそうである。

p234

驚くべきはワットの1935年の先見の明である(中略)。末尾近くでは敵味方航空機の識別機能の重要性について言及しているのである。さらに、進歩した空対地、空対空の無線通話の機能を絶対に必要になろうと述べているのである。

p245

イギリスのレーダー警戒網に偉大な功績を樹立させるにいたった真のゆえんは何だったかといえば(中略)、レーダー網のもたらす情報の意味と意義を適確に解釈し、それを最も有効に活用したという、当のその「運用法」というソフトウェアに他ならなかったのである。

p250

したがって敵味方を識別する機能は、この当時のレーダー防空警戒の全組織中でも最弱点であり、その後もかなり長期間にわたってイギリス本土防空体制のなかで最大の泣きどころとして残ったのである。

p275

そのDo17に非運が訪れたのは、主要エンジンの獲得競争に敗れたことであった。メッサーシュミットが自分のBf109戦闘機用にダイムラーベンツのエンジンを独占してしまったのである。

f:id:bqsfgame:20200201075201j:plain

p276

だがHe111もまたメッサーシュミットの強欲なダイムラーベンツエンジン独占のあおりを喰って、その犠牲となった機体の内の一種だった。

p284

このBf110ほど、かつての盛名を一敗地にまみれさせたうえに、存在した意義さえもないがしろにされてしまった機体もめずらしい(中略)。しかし本機に対する評価がこのように二束三文的なのが果たして当を得たことだろうか?(中略)しかし大戦の後半に見るように、いったん対爆撃機の攻撃に起用されたときには、本気の発揮した威力には絶大のものがあった。

p287

ゲーリングはドイツ空軍の要員選抜と育成についても、できる限りすぐれた資質の者が選び抜かれることを期して、それに適した制度を取っていた。俸給から休養、それに制服までが、他軍とは段違いに良かったのである。

p291

イギリス空軍搭乗員は、質的にどのようなものであったろうか(中略)。各飛行学校から出てくる者をすべて合わせても月間わずか200名にすぎない状況だった。その訓練の程度ときたらいっそうお寒い限りで劣悪をきわめていた。