〇山本五十六を(大体)読む

図書館です。

新潮文庫の改定版。

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もう10年くらい前から、いずれ読まなければと思っていた海軍提督三部作の中核。

ついに取り組んでみました。

上下巻合わせて900ページ。真珠湾もミッドウェイもソロモンも終わって、後は死ぬだけという所まで来ましたが、時間切れ返却となりました。

NHKの「山本五十六と開戦」の再放送がちょうどやっていましたが、あれでも語られていましたが一筋縄でいかない判りにくい人だと思いました。

親米派アメリカの国力を理解しており対米開戦に反対だったことは間違いないようです。

しかし、米内と結託して断固として陸軍の前に立ちはだかることまではしませんでした。

また、一旦、開戦が決まると真珠湾攻撃構想を温め、最初の一年半は暴れて見せるために最善を尽くしたという印象もあり、アメリカ側が山本を危険人物と見なしたのは当然であろうかという気もします。

p62

加藤(友三郎)は、「88艦隊なんか出来ることではないのだから、機会があればやめようと思っていた」

「文官大臣制度は早晩出現すべし、之に応ずる準備をなし置くべし」

p65

堀梯吉は、「スペインの無敵艦隊は英国海軍にしてやられたじゃないか、そんな思いあがった考えを、世間はともかく海軍士官自身が持つようでは将来が危ぶまれる」

p75

伏見宮軍令部総長としてはいかにも有能とは言いかねる存在だったらしい。

p86

日本がナショナルプレステージという言葉を持ち出すのに対して、英国はバルネラビリティという言葉を持ち出して議論した。

p240

96陸攻で、日本の飛行機は初めて世界の水準に達し、或る面ではそれを抜いたと言われている。

p276

その近衛の態度たる極めて高踏的で、内閣総理大臣になるのは政治の責任を取るのではなく、いはば経験を豊富にして他日元老としての献替に資せようとしているものとしか民衆の目には映じなかった。

p291

次官時代の山本が同じく次官時代の東條を揶揄した話が書いてある。

「ホホウ、えらいね。君のところの飛行機も、飛んだか。それはえらい」

笑わないのは山本と東條だけで、各省次官連は爆笑したそうである。

p320

井上成美大将は、

「あんな軍人にしたら、大佐どまりほどの頭もない男で(近衛)、よく総理大臣が務まるものだと思った

近衛という人は、ちょっとやってみて、いけなくなれば、すぐ自分は拗ねて引っ込んでしまう。」

p348

山本は、

「よし。メキシコの石油は俺の恋人だから、徹底的に応援してやる」と約束した。

そして、太平洋石油の創立総会にも挨拶に立つと、

「石油事業というのは、そんなに儲かる仕事ではありません。此処に日本石油の橋本社長も見えておりますが、自分は長岡の出身だからよく知っているのですが、日本石油など、一儲けを企んでは亡んだ、幾多犠牲者の屍の上にようやく築かれた会社であります」と述べて、東條と日本石油社長に嫌な顔をさせた。

ただし、

「おい。しっかりやれよ。石油の獲得がうまくいけば、日本は資源に対する恐怖が薄らぐから、それだけ戦争の危険が遠のくんだ」と、石油問題の重要性について語ったという。

p352

昭和41年7月号のオール読物に、梶山季之が「甘い廃坑」と題する小説を発表した。事情を知っている者が読めば内容は太平洋石油のことだとすぐ分かる。

p404

独ソ不可侵条約という、この度のヒットラーの放れ業が話題になり、

「独裁者という奴はこれだからいけません。ドイツ国民も今度はあいた口がふさがらぬほど驚いたでしょうな」松本がそういうと、

「そりゃあ、ドイツ国民も驚いたろうが、一番驚いたのは日本の陸軍だろうよ」

と、山本は皮肉そうな笑いを浮かべた。

p441

吉田善後のあと、海相の地位に就いたのは及川古志郎大将であった。

及川は、支那学の素養にかけてはなかなかのものと言われ、中国の大人の風があり、温厚で聞こえていた。

「相手が日本陸軍という、陸軍第一、国家第二の存在であるのに、だれが及川を大臣に持って来たのか、不謹慎極まる人事であった。あの定見の無い無能ぶりを陸軍が承知していて、近衛辺りに推薦したとしか考えられない」と、井上成美は、及川を罵っている。

p445

及川古志郎は山本のこの問いに、一言も応えず、

「いろいろご意見もありましょうが、先に申し上げた通りの次第ですから、この際は三国同盟に御賛成ねがいたい」と同じことを繰返した。

すると、先任軍事参議官の大角岑生大将が、先ず、

「私は賛成します」と口火を切り、それで、ばたばたと一同賛成というかたちになってしまった。

山本は近衛から日米戦が起こった場合海軍の見通しについて、質問を受けた。

「それは、是非やれと言われれば、初め半年や一年は、すいぶん暴れて御覧に入れます。しかし、二年、三年となっては、まったく確信は持てません。三国同盟ができたのは致し方がないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力御努力を願いたいと思います」

p450

米内光政は、三国同盟条約調印の報せを聞くと、自分が海軍大臣であった頃のことを顧み、

「あたかもナイヤガラ瀑布の1,2丁上手で流れに逆らって舟を漕いでいたようなもので、今から見ると無駄な努力であった」と言って嘆息した。

p458

そんな風で、軍令部の対米作戦計画というのは、ずいぶん苦しいものであった。作文としての辻褄は合っているが、実際に戦争が起こった場合、よほどの幸運に恵まれないかぎり、そうすらすらと行くとはだれにも信じられないようなものであった。天皇行幸を仰いでの御前兵棋などでは、アメリカの艦船がボロボロ沈むようになっており、あれではまるで紙芝居ではないか、陛下を馬鹿にしていると憤慨する者も多かったが、「御前兵棋とはこういうものだから」と達観している人もまた少なくなかったという。

下巻

p53

「ぼくがポーカーやブリッジが好きだからと言って、そう投機的、投機的と言うなよ」

「草鹿君、君の言いたいことはわかった。だが真珠湾攻撃は僕の固い信念だ。これからは反対論を唱えず、僕の信念の実現に努力してくれたまえ」

p59

井上成美は

「あの一言は、山本さんの黒星です

ああいう言い方をすれば優柔不断の近衛公が、とにかく一年半は保つと、曖昧な気持ちになるのは、分かり切ったことでした」

p60

同じく伊藤正徳の本に出ていることで、

明治23年北清事変の時、山県有朋内閣の下で陸軍が厦門出兵を画策し、先に上奏許可を得、兵力を出航させた後で海軍大臣山本権兵衛の諒解を取り付けようとしたことがあった。

山本は真っ向から反対し、

海軍は素性の怪しい武装員を載せた船が、海上を彷徨しているのを認めた場合、海賊船としてこれを撃沈することがある。これを篤とご承知の上で行動されたらよかろう」と言って立ち上がり、大山参謀総長は伺候して取り消しを願わざるを得なくなり問題は一日で解決した。

同じ山本だが五十六はそこまで言い切らなかった。