第49期本因坊戦七番勝負決闘譜を読む

 古いです。

 当時全盛時の趙本因坊に、相対的には若手(2才だけ年下)の片岡先生が挑戦したシリーズです。

 近年、解説者・片岡聡のファンになって片岡先生の碁を探しているのですが、唯一出ている日本棋院の黄色い文庫本はニーズを満たしてくれませんでした。

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 と言うことで片岡先生の番碁を発掘。片岡先生と言えば天元戦がホームですが、生憎と天元戦は番碁本を出しませんので、唯一の本因坊挑戦です。

 このシリーズは最終局まで縺れたので7局あります。加えて名人戦のようにリーグ戦全局の総譜はありませんが、挑戦者の分だけは付いているので参考譜7局の合計14局です。

 このシリーズではリーグ戦に山城、王立誠、片岡と昭和四天王が3人揃っています。その下の若手として小松八段、結城九段もいて、筆者がいちばん勉強していたころよりは一世代回っている感じです。そんな中で健在なのが大人、林海峰先生。

 いろいろと感慨深く読みました。

p12

 前夜祭でのファンのお目当ては、なんといっても両雄の決意表明だ。本因坊が先に立ち、まず名誉本因坊取得の謝辞を述べてから、「片岡さんは棋士として稀な紳士、ぼくも大好きな人です。好きな人だから、碁も心置きなく打てそうです」

 それに応えて片岡九段は、

「趙さんが私を好きになるのは当然です。なにしろこれまで十局以上戦って一勝しかしていないのですから。その一勝も、もう十年くらい前のことです。この七番勝負が終わったときは、趙さんに大嫌いだといわれるようになっていたいですね。がんばります」

p26

 黒の損は明らかだ。控室でも、これを境にして白優勢のムードに包まれた。

 しかし、控室は一つ重大なことを見逃していた。それは、ほかにまだ大きな手があるこの段階に、白は右上の手入れを余儀なくされたという一面だ。黒は隅を捨てた代わりに、左下4-16、さらに黒79の大場を占めた。

 改めて全局を見渡せば、地合いの釣り合いはちゃんと取れているのである。こんなところが片岡の独特の強さのであろう。工藤九段も、「私なら手をつけにいった以上、トコトンやらないと気がすまないのに」と片岡の冷静さに感心している。 

p34

「エッ、あと一分?」

 意表を突かれた黒49に趙は戸惑っている。「5,6,7‥」と読まれ、着地を迷う手があらぬほうへ伸びた。打った瞬間、

  • イケネ。やっちゃった」

 白50のオキは時間つなぎだった。しかし片岡は受けない。かまわず黒51の両アタリである。

 下辺は取られたが、黒53のヌキ(亀の甲)の威力たるや、ものすごい。地だけのことなら下辺の損が大きいけれど、千人力の厚みを得て、このあと右上隅の黒が大暴れをするのである。

p40

 そういえば加藤王座が控室で、「最近の片岡君はよく戦うようになった」ともらしていた。以前は要領のいい碁という印象だったが、要領のよさだけでは、とても超一流に通用しないという。この碁も、まさに「戦う片岡」を印象づける内容だった。

p68

 片岡は坊門である。坊門とは、世襲制最後の本因坊秀哉名人の流れをくむ者をさす。秀哉はみずから世襲制にピリオドを打ち、選手権制としての本因坊戦誕生に与した。昭和十四年のことである。

 片岡の師匠は榊原章二九段である。榊原は、故・福田正義八段、同じく村島誼紀名誉九段と二人の師についた。両師は秀哉の直弟子だった。だから片岡は、秀哉の孫弟子にあたるわけである。

p158

 白20のコウ立てを片岡は受けず、黒21と抜いた。以下は一気呵成、黒31とツイだとき、本因坊は投了を告げた。

 大振替りである。憤死した白石はコウ取り分を入れて22個、黒石は15個である。

「滄桑の変」という言葉がある。桑田が変じて大海になることで、世の移り変わりの激しさを表したもの。この碁は滄桑の変で幕を閉じた。

本因坊は「まさか死ぬとは思っていなかった」

(中略)

翌朝のことだが片岡は記者の質問に「ああなることは、ある程度予想していた」と答えている。