現代世界ノンフィクション全集3:極地の探検:南緯90度を読む

 ノンフィクション全集も、ついに「WW2以外」にやってきました。
 南緯90度、そう南極点です。
 アンタークティックウォーゲーマーとしては、この巻は欠かせません。

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 南極と言えば、NYに語学留学に行った時に通学時間に読んだこちら。

 日本でも邦訳が出たので入手しましたが邦訳では読んでいません。この機会にこちらも読もうかと思います。

 これでノンフィクション全集から3作品を読みましたが、個人的な興味もあって本作が一番おもしろく読めました。

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 南極探検と言うと、上記の「南極大陸」にも引用されているスコットとアムンゼンの北極点到達競争が有名です。
 しかし、本書はそれより後の時代の、極点での越冬探検に焦点を当てて、IGY(国際地球観測年)に実施されたスコット・アムンゼン基地の建設から一年間の観測探検までを扱っています。この探検隊長を務めたアメリカ陸軍のポール・サイプル自身の筆になる書籍をダイジェストしたものになります。
 若干、本人の自慢話と、後方支援の不足に対する愚痴が多いかなという気はしますが、南極の越冬生活の実相に漏れなく触れておりアンタークティックゲーマー必読の書と思います。また、科学者集団の閉鎖生活系という点で、KSロビンスンの作品に非常に近いことも指摘しておきます。
p30
 仕事が緒につくと、デュフェークは海軍の部下をひきつれて極点への最初の着陸にのり出した。十月三十一日、彼はガス・シン中尉の操縦する海軍R4D双発機で南極点に降りた。
p31
 だからデュフェークが極地でからい目にあい、勘気にふるえあがって、マクマードに帰ってきたのもちっとも不思議ではない。そして彼はいった。「極地で作業をするのはあまりに寒すぎる。あんなところで野外作業をするのは、人間にとって不可能だ」
p32
 バードをはじめ前近代の探検家はいつも極地探検について次のようにいっていた。「探検において、計画がお粗末であれば、それだけ冒険は増す」冒険とはまこと探検手前のずさんな計画がもとで起こることが多いのだから、わたしはこんどの計画について念には念を入れて検討をくわえたい所存なのである。
p35
 ディックは青写真だけでは多くの場合そのまま役に立たないようなめんどうな事柄にぶつかって困っていた。たとえば極点で建てる家屋の屋根や床に用いる鉄製のビームはみな、およそ6メートルの長さに仕上げられていたが、C-124機は大きな図体に似あわず、その投下口からは3.6メートル以上のものは投下できなかった。だから鉄製はりのすべては二つに切って穴を開けなければならぬ。そして、極点でこれをつなぎあわせる薄板を必要とする。
p39
 落下傘降下のときに、ウィーゼルがきつく着地し、バッテリーとトランスがこわれてしまったのである。
p39
 不幸にもボワーズが後にマクマードに報告してきたところによると、飛行機が立ってから六分儀で太陽を測って見たら、彼らの一は極点から14.6キロの所であった。実際に、かなりずれていたのである。
 次の朝、空軍のグローブマスター機は新しいバッテリーとトランスをもって極点にかえって来たが、これらの部品は早まって投下されたのでテントから4キロも離れたところに落ちた。そして、トランスは無事だったが、バッテリーはみなこわれてしまった。
p41
 この行進は殺人的なものだった。やっとのことでやりとげられたのは犬のお蔭だった。犬の荷は400キロほどで、これは普通の積載量の2/3に当っていたが、時速3.2キロで立派に曳いてくれた。人間の方は、この全行程がやっとのことで、犬は一時間に五分休むのが普通なのに、人間のお蔭でもっと休止しなければならなかった。
p47
 興味のある現象をみた。雪面上にすこし黒くなっている大面積を指さして、パイロットは「あれは何ですか」とたずねる。「雲の影のように見えるけど、どこにも雲はありませんが」
「あれは近頃表面近くに横たわっていた雲の写真なのだよ」
 雲の影になっているところと、その付近とでは太陽の光線は雪面に違った温度効果をもたらす。雲の湿気と雲の影になって低下した気温とが相まって地表に新しい氷晶をつくる。そのため、まわりとは様子が違って見えるようになる。
p52
 穴ほりの初日には5トン以上の雪を掘り出した。4日目には深さ6メートルの雪穴ができ上がった。寒暖計を入れるとマイナス52度に下がった。わたしはこれを極点での年平均気温とみてよいと考えた。リトルアメリカでは、冬の夜中には28度も低くなるので、ここではマイナス80度以下に下がると想定してよい。
p53
 下層へ行くほど雪は次第に堅くなったけれども、それは密度に比例して増加しないことを測定機器は示した。氷のブロックは重さを増すように見えたが錯覚で、その比重は表面で0.3、4m下がっても0.4にすぎない。わたしはクロスウェルに「貨物輸送はやはり空中投下を続ける方がよい」と申し送った。飛行機が降りられたら、高価に付く墜落をふせげるし、投下用器具、パラシュートなどの値段は時には荷物よりも高いのが節約できる。けれども着陸はもっての外である。
p54
 わたしはガレージと発電棟の入口が、はじめの設計では風上の方を向いていたいのを、風下側にかえるように希望したのも、変更の一つである。その理由として、わたしは風上側にはどんな車両も入れないようにしておきたかった。それは取水用にとかす雪をできるだけよごさないようにしておきたいためでもあった。また観測所の風上側の方には、いろいろ鋭敏な観測用の器械や設備を置くために是非とも残しておきたかったからでもある。
p55
 もう一つ重要な変更をボワーズは承知した。他のIGY観測所とおなじように、海軍では燃料を屋外においておくことにしてあった。だがわたしは、まっくらなマイナス75度のところで、180キロの燃料樽と格闘する案などすてておけなかった。こんな低い気温ではどんな車両もつかえないから、この扱いは手でやらねばならない。たといそれをやるとしても、これでは燃料は凍ってしまって、とかすのに大変な時間がかかる。
p58
 われわれは空中投下作業とぴったり息をあわせなければならぬので、いささか変ったスケジュールで働いていた。朝は昼までおきなかった。というのは、グローブマスターの一番気が投下にくるのは午後一時だからで、終りの便は五時である。夜半を過ぎてからも相当よく働いたあとで、おやすみをいう。
p64
 この日の大きな出来事は23時にP2Vネプチューンがやって来たことだ。少くともわたしにだけでもそうだった。というのは、IGY用の十三個の箱が、空中投下でなしに到着したからで、それらは大部分は気象観測用の器械だった。
p67
 近ごろ南極で仕事をする若者たちと、わたしのような古い探検家との著しいちがいが、材料や道具をあつかう態度にはっきりとあらわれている。これらの若者たちは軍隊生活になれているものであった。彼らの哲学、そういうものをもっているとすれば第二次世界大戦でつちかわれたものだが、仕事をするだけで、品物の節約についてはめちゃくちゃなのえある。彼らは何かちょっとした目的にも新しい板をつかい、ちょうど頃あいの板があっても、それに古釘が二、三本も残っていると、見むきもしないのである。
p69
 こういう次第で、わたしには新しい仕事ができた。すなわち、わたしはキャンプ公認の拾い屋になったのである。隊員らは、現場をきれいにするとか、材料を節約するとかいうことには、まるで責任を感じなかった。どんな小さな木切れでも、どんな長さの針金でも、またどんなカンバスの一片でも、何かの使い道があるものである。海兵たちはこんなことにはまるで心を用いなかった。
p84
「あなたがやって行くためのIGYの要員は、最低何人あればよいのですか?」
「IGYのプログラムをやるためには、八名ともなくてはならぬ」
「それにはいろいろ事情がある。ご承知のようにマクマードでは航空燃料が不足をつげています。タンカーが入るまではわれわれの航空活動は大きく切りつめられるでしょう。」
p99
 新米の人々の二つ目の話はいささか重大なニュースであった。この人たちのなかには1月23日マクマードで行われた献呈式に参列したものがあった。「あなたはまだご存じないのですか。この式はアムンゼン・スコットIGY南極点基地の命名式だったのですよ」
 タックにもわたしにもこれはすくなからぬ驚きであった。この式がすでに行われてから18日もたっているのに、われわれは、ラジオでさえもそのことを知らされなかったのである。
p101
 われわれの手元には、マクマードから送られてくる投下資材をチェックするための一覧表というものがなかった。マクマードには極点の需品のことを真剣にかんがえてくれるものは一人もおらず、標記をすることなど笑いごとのように見えた。
p114
 極地の生活の危機は数おおくある。ひとたびの火災はわれわれを荒涼未知の地のなすがままに放り出す。もしや戸外に方角を失えば、ひと時ふた時のうちに生きて帰る望みは絶たれるであろう。

 タックとわたしはある時、雪のサンプルを採取するため200メートルあるいて出た。二人は地震観測につくったトンネルと平行に歩いているつもりであったが、不意にそれに行き当り、危うく落ちそうになった。この偶然の出来事で、方位を知らされなかったら、二人はさぞかし行方不明となったにちがいない。
p118
 というのは、今のわれわれにとっては冬は一連の科学的探究の期間の開幕を意味する。また先につづく期間の自分勝手な企画をするのでもないのである。
p119
 というのは三月も終りになると、もはや戸外で車両をつかうことができなくなったのである。不凍液も凍り、低温と強風のためにモーターは動かなくなった。その上わるいことに、強い寒さのもとでは機械から出る蒸気のために、機会が火災をおこしたように見え、やむなく暗黒のなかをそろりそろり、機械のそばをはなれずに進まなければならず、時には視界がまったくゼロになることもあった。

「それでいったいどうしようというのですか。一日一人当たり45リットルの水を作り出すのに十分な浄雪が必要なのですよ」
p122
 だがこの際、天然の美しさどころではない。気温はどんどんと下降していき、とうとう1933年シベリアのオイメコンで経験された世界最低の記録、-67.7度をこえてしまった。それは五月九日に-71.5度になった。
p125
 朝食は新鮮な卵と果物とミルクがないことのほかはアメリカにいる時とおなじである。しばらくたってから隊員たちはもっと変化をのぞみ、ある者は異国調を希望してコックをなやましたものである。セーゲルスも協力的で、みんなの意見をよくきいた。わたしも意見を出し、一週間分の献立つくりを手がけたことがある。
p153
 けれども南極点での年間の降雪量は、わずかに15センチくらいであるが、これを水にすれば1.25センチになる。雪の一つ一つはアメリカで見るような立派な雪片ではない。まったく降水量に関するかぎり、われわれは世界の大砂漠の一つに住んでいるのである。ニューヨーク市の一度の降雪は、南極点での数年間よりもずっと多いだろう。
p156
 冬のあいだで、いちばんとまどったのは、われわれが予期したようなマイナス84度の気温には、であわなかったことである。地球上の他の場所のように、平均気温のカーブが期待したような正常な変化を示さないで、マイナス67度内外で平らになり、冬のはじまりと終りにわずかにこれより下がっただけであった。
p174
 南極大陸の孤絶のなかに生活する本当の不利な点は女性と家族のいないこと、異国調の食物がないこと、外界ではどんなことが起こっているかわからないこと、そして一般にプライバシーが欠けていることである。
p178
 ところがIGY隊員の全部には特別のぬきさしならぬ緊張があった。それは主としてワシントンにあるIGYの国内委員会に彼らが忘れられがちであったことに帰することができる。
p179
 もう一つおかしなことが6月22日の冬至におこった。それは南極にある外国の基地からのお祝いメッセージには応答をしてはならぬ、これはラジオで結びあうくせがつくらというのであった。けれども、われわれはあえてこれを無視した。

 そこでわれわれは五人委員会をつくって、肝心のときはたびたび会合をひらいた。時に応じてこの委員会は、それぞれの分担外で、きわだった働きぶりの隊員を選び出した。タイプライターで書かれたつぎのような表彰状を得意げにうけとる隊員は見ものであった。「基地全体を代表して、あなたが全員の利益のために進んでやってくれた立派な働きぶりにたいして感謝の意を表します」
p181
 テイラー医師は南極へくるまえに、歯科の方もすこしはやって来た。それはこれまでの探検で、ぜひとも歯科の治療ができなければならぬと考えたからである。
 ところが、テイラー医師は歯に関するかぎり、南極点基地ではほとんどまったく反対の経験をもったのである。歯の治療をしたのはゲレロ一人だけである。なぜそんなにわれわれが歯のことでわずらわされなかったのか、今もなおわからない。
p182
 南極で士気を高く保つうえで大切な要素は、日々の仕事に嫌気をおこさせないことである。時々の返歌の期待がなかったら、仕事も暮らしも、なやみになる。しっかりとスケジュールをやっていかなければならぬ場合、これをどうしたらよいか。
 その答えは休日をこしらえ、行事をもよおして、これを適当に仕事日のあいだにはさむ。たとえば、われわれは毎月、満月の出る日を休日とした。それは特別な食事と特別な接待とを意味する。料理係はそんなとき決して失望させなかった。そのうえ、朝はおそく起きてもよく、夜は映画をたのしめた。
p200
 南極の最大の資源とみとめられるものは、一見もっとも役に立たぬと思われているもの、すなわち、氷と寒さと空白である。

 際限のない空間需要をもつ工業の好例は一連の原子力凝集の工程であろう。原子力は人類にたいして測りしれない恩沢をもつものであるが、しかもその産物はあらゆる形で人間に致命的であり、それだけに多くの余裕地積を必要とする。