〇太平天国(二)を読む

 引き続き2巻です。図書館。

 いよいよ本格的に旗揚げして、次々に合戦を繰り広げていきます。本書は戦記物でも戦史書でもないと思うのですが、かなり作戦機動の描写が厚いので、こういう作戦級ゲーム(全体戦役でなく個々の地方の)が欲しくなります。いや、自分で作れば良いのでしょうが‥。

 S&Tの満州の緒戦である永安城は本巻の中ほどに登場します。そこから次は桂林(当時の広西省の省都)へと進んでいきます。

 

p28

 欽差大臣自殺の噂は、太平軍の将兵の士気を鼓舞したものだった。

 理星沅の死は四月十二日のことである。

 それより前に、北京の朝廷では、「総統将軍」特派の上奏にこたえて、大学士の賽尚阿という大物を広州へ送ることを決めていた。

 賽尚阿は蒙古族であり、定員七名の大学士のなかでも筆頭のそれである文華殿大学士であり、戸部尚書(蔵相)を兼ねた軍機大臣でもあった。これ以上の大物はいないとおもわれるほどの大物なのだ。

p30

 だが、満州族将軍の参加は、現地の軍隊をかえって混乱させることになった。

 烏蘭泰の率いた千名の兵へ満州兵であり、彼らは各地に駐防する近衛軍なのだ。

 - 天子の直轄の軍隊だぞ。

 と、彼らは威張っていた。烏蘭泰は満州の正紅旗人であり、兵卒出身の将軍である。道光六年、ジハンギールがコーカンドの援助をえて新彊で反乱をおこしたとき、従軍して戦功を立てた。それによって出世のスタートを切った。まず下士官といったところである。道光十五年、彼は護軍校に昇任していた。れっきとした将校である。アヘン戦争のときには営総であったから、既に将官である。

 烏蘭泰の性格があらわれたのは、火薬庫爆発事件であろう。爆発で死者が出て責任者の一人であった彼も、革職留任の処分を受けた。免職だがポストにとどまり、償いをする機会を与えられた。彼にとって思わぬ躓きであった。ここで彼は原因を徹底的に調べ、原因は製造工程にあることを突き止めて改良した。これで彼はもとの位階をとり戻した。

 彼は自分が無謬の人間であると信じており、その執念はきわめて異常である。

p40

 欽差大臣の鄒鳴鶴は、「官軍はどうも使いものにならない」

 誰もがそう思っていた。打開策としては、義勇軍に頼るしかない。各地には団練があり、郷土を守っていた。郷土の自警団に過ぎず、彼らは故郷を出てまで戦う意欲はない。そんな団練より意識の高い戦闘部隊を養成すれば上帝会との戦いに役立つであろう。

 これから養成するのでは遅すぎる。

 - 湖南の新寧で匪賊をとらえた男がいたではないか。

 江忠源、あざなは岷嶕という。道光十七年、郷試に及第して挙人となり、教職についていた。道光二十七年に、湖南、新寧で天地会が略奪を働いた時、江忠源は郷兵を率いて討伐した。

p58

 太平軍は新嘘を中心とする村落に分散して、清軍の攻撃に備えた。守りだけではない。相手に隙があれば、果敢に攻撃に出たのである。

 局地戦だが、このような戦いもあった。

 提督の向栄と、欽差大臣とともに着任した巴清徳が協力して太平軍を攻めた。

 向栄と巴清徳は同格であるが、同格の場合は満州軍が指揮を採る不文律であった。

 向栄の攻撃で太平軍は敗走し、その前面に巴清徳軍がいた挟撃すべき場面である。しかし、巴清徳軍は太平軍が攻撃してきたと思い巴清徳を筆頭に潰走してしまった。太平軍は巴清徳軍の遺棄した武器や食料を無傷で手に入れたのである。

p91

安城は山中の険路をたのんで、城壁をあまり高くつくっていない。高い部分で5mほどであろうか。火薬筒を投げ込むのに届かなくはない。

太平軍は鉱山で働いていた数千の鉱夫がいて、火薬の作り方を知っていた。永安城をめざして準備は行軍中も進めていた。どの村落へ行っても線香と蠟燭と爆竹を買い占めて進んだ。太平軍はかならず適正な代金を支払った。

- 景気よく攻め込む。

羅大網がそう言ったのは、爆竹と火薬筒を投げ込み、城内に送り込んだ李新妹を同時に内応させて城門を開かせる。それによって敵が「これは戦っても無駄だ」と逃げてくれれば良いのである。

中略

 はたして、李新妹の工作によって、太平軍はほとんど犠牲を払わずに、永安城を手に入れることができた。太平軍が突入したのは、閏の八月一日の夜のことであった。

p109

 北京の市民たちは、はるか南方での耶蘇教徒の反乱よりも安徽省での捻匪のほうに関心が強かった。安徽の方が広西より北京にずっと近いからである。

p132

 - 全軍は東路より進み、昭平、平楽から北進して桂林へむかう。

  清の東路軍が最も手薄であることを、太平軍は偵察によって知っていた。清軍は完璧な包囲陣を敷いたつもりだが、清軍の実情については、清軍自身よりも太平軍の方がくわしかったのである。

 永安城の東に古蘇沖という小渓がある。そこを守る清軍は、安徽省寿春鎮の兵であり、あまり強くないということがわかっていた。寿春兵はいわば輜重卒であった。けれども員数がそろっているので、戦力に数えられていた。

 二月十五日。太平天国新暦で三月一日、天王の勅令により雨をついて全軍の脱出が敢行された。先鋒は永安攻撃で戦功を立てた羅大網軍であった。

p145

 清軍は旗本にあたる八旗軍と、漢族軍隊である緑旗営とでは、階級の呼称が異なっていた。烏蘭泰は副都統で、これは緑旗営の総兵に相当する。向栄は提督だから、とうぜんその上位にあった。けれども、あのときの勢いというものは、烏蘭泰の暴走をひきとめることはできなかった。

「このことは、上奏文のなかにはっきりと書いておかねばならん。欽差大臣も知っていることだ。‥」

 向栄はひとりごちた。

 部屋のなかには、何人かの幕僚がいたが、誰にきかせようとするでもない。ひとりごとである。ひとりごとでも口にしなければ、不安でならなかった。

 このこと、とは向栄が追撃について慎重論を唱え、それを烏蘭泰が無視したことである。

 ドカーン!

 轟音がして、部屋がかすかに軋んだ。

「またか!」

 提督は唾を吐いた。

 太平軍は計画的に永安城を退出したのである。敵の手に渡る城内に仕掛けを残していかないはずはない。あちこちに地雷を埋めていたのだ。

 地雷に触れて、ふっとばされる者があとをたたないいまの轟音でも、犠牲者が出たはずなのだ。

 湖南の義勇兵を率いてきた江忠源は、病気と称して、故郷へ戻ってしまった。正規軍ではないので、彼の行動は比較的に自由であった。彼は立ち去るとき、

 - このような兵隊では戦えない。

 と、言いのこしたという。国軍は信頼されていないのである。

p184

 欽差大臣の賽尚阿は、桂林の包囲が解けて七日後に、桂林に入ったのだから、戦争の実況は知らなかった。けれども、各方面から情報を取ることはできた。巡撫が報告した戦功のでたらめぶりは、あまりにも公然となりすぎていたので、真相をつかむのは、それほど難しいことではなかった。巡撫が報告した戦功のほとんどが、根拠のないものであることがわかり、賽尚阿はその通りに報告した。その結果、巡撫の鄒鳴鶴は免職処分になったのである。

 清朝の高官たちは、たいてい馴れ合いなのに、欽差大臣の再調査報告がなぜそんなにきびしいものになったのか? いやきびしいというより、真相どおり、といわねばならない。その裏には、賽尚阿と鄒鳴鶴とのあいだの不和といういきさつがあった。

 賽尚阿は欽差大臣として、太平軍を殲滅しなければならない。ところが、鄒鳴鶴は広西巡撫であり、彼の任務は広西を守ることに限られていた。欽差大臣が出兵追撃を要請しても、広西巡撫は言を左右にして、それに従わなかった。太平軍のほかにも広西には匪賊の雑軍があちこちにいた。

p189

 知州は決定をくだした。

「砲撃は控えよ。彼らが攻めてこないかぎり、こちらから砲門をひらいてはならぬ」

 だが、彼の言葉の終わりは轟音にかき消されてしまった。

 三門ならんでいた城壁の上の大砲の真ん中が砲撃したのである。

「やったぞ!」

 と砲手は叫んだ。

「やっつけたぞ。死んだであろう。戸板に乗せて運んでいく。洪秀全かな。それとも楊秀清か」

「ばかもの!」

「いまにわれ先に逃げていくぞ。将を失った軍隊は、消えていくものだからな」

 予言は当たらなかった。

 太平軍は引き返しはじめたのである。それは、あきらかに全州城を攻撃する動きであった。

p201

 敵を軽んじた太平軍は、専門の斥候隊を出すことを怠っていた。十艘ほどを先鋒隊として、それに斥候を兼ねさせたのだ。けれども、船に乗り込んだ者たちは先鋒隊という意識が強すぎた。そもそも斥候と先鋒を兼ねること自体が矛盾である。斥候は敵と接触すれば、それを後続に知らせねばならない。先鋒は勇ましく戦うものである。

 蓑衣渡で待ち受けていたのは、清の国軍ではない。江忠源に率いられた湖南の義勇軍だったのである。江忠源は政府軍では戦争ができないと見て、永安から故郷に引き返し義勇軍を募ったのである。国軍とは訳がちがう。そのうえ、彼らは土地の出身者であり地理に明るい。どこで待ち伏せすれば良いか判断できた。

中略

「じゅうぶん引き寄せるのだ」

 江忠源はようすをうかがっていた。

「もういいだろう」

 彼は手に持った赤い旗を大きく振った。

 最初の砲声がとどろいた。狙いを定めていたのだから、先鋒隊の隊長が乗った船に命中した。第二弾、第算段がつづいて撃たれた。川の色は赤味を帯び始めた。

「船を棄てよ」

「岸に登れ!」

 楊秀清はこんなときでも冷静に命令した。

 連理文は、重傷の憑雲山とおなじ船に乗っていた。重傷者は泳げない。

「思いきって、岸に船をぶつけよう」と提案した。

「それよりほかないだろう」

p231

 曽国藩が北京を発ったのは、六月二十四日のことである。

 太平軍が道州を放棄して東進を開始したのは、その翌日のことであったが、曾国藩はもちろんそんなことは知らない。

 曾国藩は容易ならぬ敵であるとは認識していたが、政府側の視点で考えるせいか、太平軍が湖南を蹂躙するとは予想できず、広西へ逆戻りするのだと予測したものである。

p266

 七月二十八日、太平軍は長沙城を望む妙高峰に陣をしいた。

 石馬鋪の清軍と妙高峰の太平軍とは、いやでも戦わねばならなかった。太平軍の方は、この野戦を予想していたが、清軍の方は長沙城についたらゆっくり休んで腹いっぱい食べたいと思っていた。こうなれば兵力など問題ではない。一方的な戦いに終わった。