☆太平天国(三)を読む

 引き続き3巻です。

 延安から桂林、そこから長沙と進みますが、省都である桂林や長沙は容易に落とすことができず、展開に行き詰まりを見せる太平天国軍。

 3巻では、楊秀清が実権を握り、指導部の不安定化も目立つようになってきます。

 そして、後半で南京攻略で一気に盛り上がりました。

 

p7

 西王嘯朝貴重傷。

 そのしらせをきいて、天王洪秀全は、一瞬、顔面蒼白となった。

 東王楊秀清は唇をかみ、うつむいた。拳をにぎりしめている。

 北王韋昌輝は眉をしかめて、ちらと東王のほうに目をむけた。

(悲痛な表情をしているが、本心からであろうか? 西王が死ねば、この男、内心、一ばん喜ぶのではないか?)

p16

「いかんな、これは。‥」理文は譚七のそばに寄って囁いた。-「長沙のこのありさまを、そのまま天王や東王に伝えないといけない。市民たちは、お上のやり方をよろこんでいるとね。‥内応者はとてもみつからない。私の意見としては、長沙は攻めずに、先を急いだほうがよい」

中略

 貧民に救済米が配給されたのは、省の金庫にたくわえられている金銭を、惜しげもなくつかったからである。民間からの買い上げも、省政府の金から出ていた。

 左宗棠は一介の幕閣にすぎない。けれども、彼は巡撫張亮基に大きな影響を与える立場にあった。軍律のことも、庫銭放出のことも、左宗棠が建議したのである。

p28

 主力の増援を得て、太平軍は東側の劉陽門を攻めようとした。そこは、百二十年後に、前漢墓が発見された馬王堆のあたりにほかならない。

 結果は太平軍の敗北であった。

 江忠源軍は、蓑衣渡で太平軍を破った実績がある。そのため自信をもっていた。十日前に不覚をとったことで、いっそう闘志を燃やしていたのだった。

 太平軍の方は、新しい編成で戦うのはほとんどはじめてで、湖南の会党を加えたが彼らは湖南人と言っても南部の人で長沙の地理には明るくなかった。

p38

「返せ、返せ! 伏兵が埋められておるぞ!」

 いくら左宗棠の声が大きくても、対岸まできこえるはずはない。

 林がせまっているところで、はたして太平軍の大軍があらわれた。城壁から見ていると、そのあらわれ方はじつにみごとというほかなかった。

 あっと言う間であった。淡い赤色の土が、みるみる黒くなったのである。まるで染められたように。

p80

 太平軍は益陽県を占領し、千数百艘の舟を手に入れたことから、岳州へむかい長江へ出る方針を決めたのである。太平軍が占領した時の益陽県は、じつは知県が更迭したばかりで、空位になっていた。

 広西でも湖南でもあったことだが、太平軍は一つのまちをせんりょうすると、まずそこの清朝任命の長官を殺してしまうのである。太平軍方式とでもいうものだった。役人を殺したあと、孔子廟そのほかの偶像の巣窟を破壊するというパターンがあった。

p82

 向栄は湘陰において、岳州宛の書翰をしたためた。

 - 一両日、学習を死守せよ。かならず救援に赴く。‥

 という内容のものである。

 翌日、この書翰は届いた。しかし、受取人はすでにいなかった。

 最高位の文官の廉昌と、最高位の武官の博勤恭武とは、すでに東門から逃げ去っていたのである。

p87

 長沙では、清軍は大軍を擁しながら苦戦した。その理由の一つに、太平軍が来るまえに、城外の民家を処分しなかったことが挙げられている。太平軍は長沙城外の民家を拠点にして、攻め立てたのであった。

 武昌にはそのとき、たまたま江南提督の双福が来ていた。武昌は湖北省省都であると同時に、湖広総督の駐在するところでもあった。

 湖北巡撫の常大淳は、人柄は良かったのだが、決断力にかける人物であったので、双福に守備を援助してもらいたい。と請願したのである。

 双福は正反対で、決断力はあるけれども、人柄は円満とはいえなかった。彼の決断は独断であった。

p105

「双福め! あいつ戦争のやり方を知らぬな」

 向栄はなんども毒づいた。

 双福は満州族であった。新彊遠征軍に加わり、出世の糸口をつかんだ。華北と古州の総兵をあわせて一年余り勤めて、提督に任命されたのである。

 向栄にはこのことが気にくわない。彼は総兵を五年も勤めて、やっと提督に昇任したのだ。双福は満州族であったから、昇進が速かった。向栄には、そのような怨念があった。

p112

 羅大網の作戦は図に当たった。囮の坑道の一つは気付かれ、そこは水びたしにされてしまった。けれども、本坑道は無事に掘り進められ、文昌門のすぐそばの城壁に達したのである。気づかれなかったもう一つの囮の坑道にも、爆薬を仕掛けることができた。

中略

 十二月四日黎明。霧の深い朝であった。

 太平軍の仕掛けた地雷が、天地を揺るがさんばかりの大音響で炸裂した。黒い磚のおびただしい破片が、天に噴きあげられた。

「みよ、脆いぞ!」

 長沙城のときは、城壁とはなんと堅いものかと、太平軍はため息をついたものだった。ところが、こんどは、城壁とはなんと脆いものかと、人びとは眼をこすったのだ。

p125

 その男が連れ去られたあと、東王楊秀清が演台にとびあがった。

「天父、天兄を侮辱する者が、どのようなめにあうか、皆に見せてやろう」

 と楊は言った。

「馬という姓の男だそうだが、始末は馬に任せよう」

 その空き地に五頭の馬が引き出された。馬たちは円陣を作った。それぞれちがった方向をむいている。そこへさきほどの男がつき出された。

 - 五馬分屍。

 五頭の馬に人間の四肢と首とをつなぎ、一斉にちがった方向へ疾走させるという残忍な処刑法である。

p135

 上海の外国人筋の反応について、連理文は首脳部に

 - 過大な期待をかけてはならない。と忠告した。

 キリスト教を国家の指導原理とするのだから、その太平天国に外人筋は好意を持つはずだ。太平天国の中に、そんな楽観論があった。

 - 上海にいる外国人は、キリスト教徒である前に商人なのだ。しかも、そのほとんどがアヘン貿易と関係をもっている。そのことを忘れないように。

 太平天国は国是の一つに、アヘンの絶滅をうたっている。アヘン吸飲者はもとよりその販売者、さらにアヘン道具の製造販売者まで死刑にするというきびしさである。

p140

 曽国藩が服喪帰郷の途中、武昌で世話になった常大淳が殉職している。

 上論に接したけれども、曾国藩はすぐにはそれを受ける気持ちになれなかった。帰郷して三カ月余しかたっていない。

p144

 提督の向栄は、三百の潮勇をぜんぶ殺してしまおうとした。荒療治である。清側の記録によれば、彼らは沿道で乱暴のかぎりを尽くし、立ち去るときはその家を焼き払った。

 害を為すこと、賊と合い均し。

 賊を引き合いに出しているが太平軍はこのような乱暴がほとんどなかった。

p149

「数の問題じゃないわ。選妃なんて、そんな考え方が問題なのよ。楊秀清は選妃で、一番きれいなのを自分のものにしてしまったそうよ。二番目を天王に献上したんだって。‥ああ、なんて汚い!」

p152

 五十万の大軍の長江くだり。

 歴史のかがやかしい場面である。あまりにも強い光を放っているので、武昌東郊に出撃した兵士たちの奮戦が、ともすれば忘れられがちであった。

p159

 それなのに、奇善は河南省の信陽まで行きながら、それ以上、軍隊を進めようとしません。太平軍の北上に備えるというのですが、誰が考えても、これは戦争をしたくないための口実にすぎません。攻撃が最も有効な守備であります。河南軍がいちはやく南下すべきであることは、しろうとでもわかることでした。

p165

 太平軍東征の沿路の清国諸代官のなかで、戦意らしい戦意をみせたのは、安徽巡撫、蒋文慶ただ一人であったと言ってよいでしょう。彼は文武の高官を督励して、安慶を死守しようとしました。総督が言ったように、この地で防ぎきれなくても、全力を尽して、いさぎよく散ろうとしたのです。

 巡撫の戦意は、安慶の幹部たちにとっては、迷惑千万だったのでしょう。巻き添えになってはかなわないと、それぞれ脱出の方法を考えていたのです。

p168

 安徽攻撃の太平軍は再び船に乗って、つぎの攻撃目標にむかって進みました。最後の部隊が、安慶をはなれて船に乗り込んだのが正月二十二日だったということです。けれども、石達開の先鋒部隊は、その日、すでに二百里東北の銅陵を陥していたのです。

中略

 江上戦もありました。勇将の誉れ高い福山鎮総兵の陳勝元が、蕪湖下流の東梁のあたりに兵船をならべて、迎え撃とうとしたのです。

 総兵などは軍隊に入って二十年も三十年も戦争のことを研究した人のはずです。それにくらべて、太平軍は兵を挙げて三年しか。それなのにこの江上戦では、専門家の清軍が、しろうとの太平軍のかんたんな策略にひっかかって、完敗します。

 清軍の弾薬が欠乏していることを太平軍は知っており、そこで泥を積んだ船を前へ進めたのです。清軍はこれにたいして、けんめいに砲撃銃撃を加え弾薬は尽きて戦闘力を失ったのです。そこへ太平軍の兵船があらわれて、あっというまに清軍を覆滅しました。

p195

 太平軍の作戦は、江上戦のときもそうだったが、清軍に砲弾を浪費させることだった。

聚宝門は、いわば寺院区域で、なかでも西天寺は五百羅漢で有名。

 夜間、これを山の斜面に並べ藁でなかば隠すようにしておいて、あちこちで提灯をともした。五百羅漢軍が攻めてくるとおもわせねばなないため、数十人の兵士が声を出す決死隊として雨花台の山中に配置され吶喊の声を上げる。すると清軍は、おびえて砲門をひらく。この作戦はおもしろいほど図にあたった。

p196

 南京が要害の地であるについては、一つの条件をつけねばならない。城外東郊の紫金山を、守城軍が保持することである。

 紫金山は、当時、鐘山と呼ぶのがふつうであった。この鐘山から、南京城を見下ろすことができる。

 いま紫金山には天文台があり、山麓には孫文を祀る中山陵がある。太平天国戦争のときには、紫金山麓には明の孝陵があっただけなのだ。それは、明の創建者である太祖洪武帝の墓である。

 清軍はこの山を守る意思はなかったようであった。大きな山なので、ここを守るには、相当な兵力を必要とした。南京はただでさえ兵力不足なので、城内の守備にまわしたかったのであろう。

中略

 天下の要害といわれる南京が、僅か十三日の包囲で陥ちたことについては、さまざまな理由があろうが、後世の史家は、漢・満の不和をかならず挙げている。

p202

 坑道作戦は、下関の静海寺からはじまった。大きな寺であった。この床下を掘り進めた。城壁のうえから作業は見えない。ただ問題になるのは、掘った土である。

p205

 鈍重な清軍は、夜間の移動などできなかった。けれども、移動しなければならないというかんじがあり、いわば中途半端な態勢になっていたのである。

 紙人形騎馬隊の疾駆は2月9日の夜のことで、これで城内守備軍を、すくなくとも心理的に動揺させることができた。三条の坑道はすでに城壁の基礎部に達していて、十日の早朝に爆破予定だったのである。

 十日早朝、めずらしく総督が儀鳳門の将軍を訪れた。

「賊は南にまわりこんだようすですぞ。昨夜もごらんになったでしょう。こちらに兵力をまわしていただきたい」という用件であった。

「騎馬隊の移動は、確認しました。しかし、静海寺も怪しい」

p206

 突破口をできるだけひろくするために、坑道は途中で三条に分けた。三か所並べて一挙に爆発させて、すくなくとも十メートル以上の幅の突破口を作りたかった。

 耳の鋭い人は、爆裂音が二回聞こえた。

 爆薬の専門家が首をかしげた。

 爆発の遅れている地雷があるのかも。

 指摘を受けて、ただちに、「待て!」の指令が出たが、突破口に興奮して殺到する兵士たちには届かない。

 林鳳祥は、「不発であれ」と祈った。

 最悪の事態となった。

 第三の地雷は遅れて爆発した。儀鳳門では太平軍の兵士が犇めき合っていた。おびただしい犠牲者が出た。清朝側の文献では、この爆発による死者を千余名としている。

中略

 後退した清軍の兵士たちは、猛然と前進した。斃れた太平軍兵士の耳を切るためだ。殺した敵の首級で軍功が決まる。頭は重いので、耳で代えていたのだ。

中略

 三個の地雷が全て爆発したので改めて太平軍は突撃命令を出した。

 耳を切っていた兵士たちは、「疇防局だぁ!」と退散した。疇防局は、軍功を判定して褒章を出す部局である。逃げるのではなく、急ぎの用があるという屁理屈である。

p215

 南京城西門の守備が空になったのは、命惜しさのために逃げ出したのではない。そこを守る青州兵が、旗営と喧嘩した仲間の応援に離れてしまったからである。

p246

 なお南京には少数ながら、カトリック信者がいた。フランス人神父の努力の結果である。

 ところが、太平軍の入城のあと、カトリックは迫害されたという噂が伝わった。

p278

 外人筋の太平天国に対する関心は複雑だった。

 はたして清朝政権を打倒してとってかわれるのか?

 そうなったら、清朝と条約で約束した権益は守られるのか?

 太平天国がいうキリスト教の実態は?

p298

 劉麗川が小刀会のリーダーとなると、こんどはそれを知った呉健章がおもしろくなかった。

 これまでは、裏路地で、おれは呉健章の恩人だぞと吠えていたのが、こんどは表通りで吠えまくることに。

 呉健章は小刀会を目の敵にしはじめたのである。

 もともとお上は、会党にたいして不快感を持っていた。