☆太平天国4を読む

 とうとう最終巻です。もちろん図書館。

 前の巻の終盤から太平天国内部の諍いが目立つようになり、いよいよカタストロフィーを迎えます。

 それにしても、太平天国が衰退するのは、偏に洪秀全のせいと言って良いでしょう。

 最終的には天京事変がトリガーですが、そもそも楊秀清の横暴を許したのは、秀全の軍才のなさ、リーダーシップの優柔不断によるものです。秀清も悪いが、それに横暴を許した秀全のトップとしての責任が大きいと思います。

 韋昌輝に秀清を討たせたのも判断ミスで、なぜ石達開を使わなかったのかは秀全の判断ミス、段取りの悪さによるものです。結果として韋昌輝の恐怖政治の到来を許しました。

 韋昌輝も排除したあと、直接の親族しか信用できなくなり二人の兄を登用したことで組織再生の機会を逃し、二人の兄の収賄天国を招きました。

 どこまでも秀全が悪いのです。

 結局のところ、太平天国は秀全が一代で築き上げ、自ら破壊した一代の夢という陳先生の評価なのでしょう。。

 陳先生の本を初めて読みましたが、大作ながらリーダビリティも読み応えも申し分ありませんでした。いわゆる「当り」の直木賞作家です。でも、これ受賞作ではないですから、受賞作も図書館で借りてくるべきでしょうか。

p42

「ぜひそうしてくれ。小刀会の運命はここにかかっているのだ」

「できるだけやってみよう。‥ところで、道庫の公金の金額がわかったそうだね?」

「四十万元近くあった」

「われわれ閩幇のあいだでは、これを粤幇と公平に二分して、それぞれで使おうという意見があるが、どんなものかな?」

「それでは小刀会が二つになる。困る、それは。‥小刀会は一つなのだ」

 劉麗川は下で唇をなめながら言った。

p46

 女営のトップは、天王、洪秀全の妹である洪宣驕であった。彼女は西王、嘯朝貴の未亡人でもある。女ながらも撃剣の名人で、読み書きもでき、統率力にもすぐれていた。太平天国のファーストレディの座は、これまで揺らぎもしなかった。

 ところが、太平天国が南京を取ったあと、溥善祥という才女があらわれたのである。題を与えると、即座に長い詩をつくることができた。中国の詩は韻や聯や平仄などやかましい規則がある。彼女の即興の詩は、その規則にぴったり合っていた。文人墨客のたぐいのすくない太平天国幹部のなかで、詩文で彼女に匹敵できるのは、辛うじて翼王、石達開ただ一人といってよかったそうだ。

p50

 小刀会は南京の太平天国と連絡をとりたがっていた。大樹のそばに身を寄せたいのである。上海県城をもちこたえてはいるが、じつは小刀会の戦力は、僅か五千足らずであった。彼らが強いのではなく、清軍が弱すぎるので、現状を維持しているのにすぎない。どうしても太平天国のような強い力に頼りたい。そこに所属することを希望しているのだ。

p52

 天王も東王も北王も、競争をするようにぜいたくをしたのである。

 天王は両江総督を天王府としたが、それが焼けると、再び宏壮な宮殿を造営した。それは城のなかの城であり、数キロにわたる城壁で囲まれ、天王、洪秀全の住むところは金竜殿と呼ばれた。門という門には、皇帝の色である黄色の絹がかけられていたのである。それだけでも、どれほど大量の絹を要したか想像できるであろう。

p54

「東王と北王は、あまりうまく行っていないのだろう?」

 と理文は訊いた。

 東王、楊秀清と北王韋昌輝とははじめから性格的に合わなかったのである。太平軍の遠征という苦労のときは、たがいに力をあわせていた。だが、南京を取って、ぜいたくができるようになると、猜疑と嫉妬とが二人のあいだに渦巻くであろう。占領直後に南京をはなれた理文にも、そのことが予想できたのである。

p64

 - 幼王の教育に気をつけるべし。

 跪いた天王、洪秀全にたいして、そのような天父エホバの叱責があり、

 - その過ちにたいして杖四十を罰す。

 という命令が与えられた。

 北王韋昌輝が進み出て言った。

「天王に代わって私が杖を受けます」

「ならぬ!」

 楊秀清は、その場の空気をいち早く察した。

(これは早かった。‥)

 エホバの罰を受けたいと望む者は、つぎつぎとあらわれそうであった。

p66

 曽国藩は、けんめいに船をつくっていた。

「船だ、船だ。船がなければ、なにもできない。船なしに戦うのは、死にに行くようなものだ。戦うにはまず船だ」

 これが彼の口癖であった。

 湖北湖南の船は、太平軍によって、根こそぎ持ち去られていた。その船団によって、南京が陥落したといってよい。

 満足な船は、ほとんどのこっていない。曽国藩は湖南の湘潭と衡州に造船所を設け、昼夜兼行で船を造らせていたのである。

中略

 征西軍は安慶からさらに西へ進み、田家鎮、半壁山で江忠源軍を破り、漢口、漢陽を占領した。知府の兪舜卿、知県の劉鴻庚たちが戦死している。

p69

 曽国藩は北京にそんな報告を送っていたけれども、北京では当面のことしか考える余裕はなかったのである。江忠源は、この朝廷の焦りのために、殺されたようなものだった。

p72

 呉文鎔が黄州に兵を進めたのは、咸豊三年12月9日で、太陽暦ではすでに年が明けていて、1854年1月7日のことであった。病気をおして江忠源が濾州についたのは、その三日後であったと記録されている。

 自殺行であったといえるだろう。呉文鎔も江忠源も死以外にないことを自覚していたふしがある。

p74

 手がつけられないとはこのことであろう。江忠源が到着した翌日から、濾州城内は戦争状態になったのである。太平軍との戦いではない。江忠源が連れてきた湖南の義勇兵が、地元の義勇兵に襲われ、それに反撃を加えたのだ。城内の民家は、すべて門をとざしてしまった。

p76

 曽国藩はしばしば北京に上書して、水軍の整うまで、軍事行動を起こすことを延期すべきであると進言した。だが、北京には戦術も戦略も理解できる者がいなかった。

p83

 北京は騒然としていた。

 長髪賊がすでに天津まで近づいていたのである。

 ただし、黄河の岸にたどりついてから、北伐軍は貴重な時間をついやしすぎることになった。清朝は急いで、黄河の船を撤去したため、渡河に苦しんだのである。

p84

 北伐軍の首脳たちは、渡河したあと、懐慶府を包囲した。

 包囲は60日に及んだが、これを陥とすことができなかった。

 戦いのあとをたどれば、これもよけいな道草であったとわかる。けれども、北伐軍は二カ月かかっても陥ちないなど、はじめは想像もしていなかったであろう。

中略

 9月9日、重陽の日、清朝はついに皇族の恵親王、綿愉を大将軍に任命した。恵親王は咸豊帝の叔父にあたる。

p92

 懐慶府を六十日も囲んだのが、太平軍の失敗であったことは、いよいよはっきりしたといわねばならない。

 清朝に対策の余裕を与えたばかりではなかった。太平軍は「冬将軍」という大敵をみずから招いたことになる。

中略

 だが、遅かった。

 冬将軍は駆け足で直隷の平野にむかっていたのである。

 北伐軍は、広西、湖南、湖北出身者が多く、酷寒を経験したことのない地方に育っていた。からだが慣れていないだけではなく、寒さに備える法も知らない。

中略

 啄州を中心に、堅固な大営が築かれ、そこを突破するのは、きわめて困難であることが、北伐軍の幹部にもわかっていた。

「これまでのつもりでいては、痛い目に遭いそうだぞ」

中略

 北伐軍は南下し、清軍がそれを追撃した。太平軍の死者は、戦闘によるよりも、寒冷による者のほうが多かった。

p106

 フランスははじめから太平天国に好感をもっていなかった。

 太平天国は各地のカトリック信者にたいしてよくなかったのである。太平天国の理念からすれば、礼拝堂に偶像などを置いているカトリックは、真のキリスト教ではないと認識されたのだ。

p111

 小刀会は周立春の偉業に敬意を表して、その娘に「女将軍」の称号を与えていた。その称号からいっても、周秀英は兵を指揮する資格があったのだ。

「では、青浦の衆に頼もう」

 外人義勇兵団と清軍との衝突の時間は、午後四時ときまっていた。両軍が戦端をひらいたあと、小刀会が清軍にたいする攻撃をするという、いたってかんたんな作戦である。

 小刀会も連維材も予想していたのに、かんじんの両軍が、そうではなかったのである。

p119

「そうだな‥。いまは両面作戦だ。西から曽国藩が、湖南の義勇軍を率いていくる。これは太平軍にとって、はじめて遭遇する軍隊だ。西は上流だから、太平軍はよほどがんばらねば無理だろう。北伐軍は寒冷のため、北京どころか、天津を取ることさえできなかった。いま北上援軍が出発した。西と北とで、もう手いっぱいだ。‥東の上海に手がまわらないとおもうだろう。だが、私のみるところ、東がもっとも大切なのだよ。理文にはわかるだろう?」

「はい。上海は世界にひらけていますから」

「世界を見る目が、あの連中にできれば、どんなに強くなれるか。‥だが、そのことに、彼らは自分で気づかねばならない。教えてはいけないのだ」

p121

 小刀会がほろびて、もう一年以上になる。

 上海の人たちは、そのときのことを、誰もがあざやかにおぼえていた。それは陰暦の正月一日のことだったからである。

 銃声だか爆竹の音だか、誰にもわからなかった。それは同時になっていたのだ。

 江蘇巡撫の吉弥杭阿は、ついに思いを遂げた。一年半近く上海県城を占領していた小刀会を、攻めおとすことができたのである。このときの攻略には、フランス軍が参加している。フランスの提督ラゲルが、積極的に小刀会に攻撃を加えた。清軍の封鎖作戦に、フランスは以前から協力し、小刀会に補給をつづけるイギリスやアメリカに、それでは適正中立ではないと抗議していたのだ。

p134

 南京占領のあと、さまざまな問題が、一時に表面に出てきた観がある。

「東王の性格が、あれではね。‥」

 譚七はそう言って、ため息をついた。

p152

「天王の密使の件、どうやら、もれているようだが。‥」

「西玲への密使の件ですか、あれはわざともれるように細工してあるようです」

 連理文はそう言った。

「江西と湖北への密使をかくすための、苦肉の策だな。‥天京は危ない」

p168

 水軍は大と小をあわせて、はじめて機能を有効に発揮することができる。大船グループと小船グループとが分かれてしまえば、戦力は数字以上に低下するのだ。

 大船はそれ自体では攻撃できず、小船の戦闘力に頼っている。小船は軍糧や弾薬の補給を大船に頼っている。

p174

 天父エホバが、楊秀清にのりうつって、つぎのように天王、洪秀全に語りかけた。

‥そなたと楊秀清とは、ともにわしの子で功労がある。それなのに、なぜそなたが万歳で、楊秀清が九千歳なのじゃ?

 太平天国では、天王のみを「万歳」と称し、東王、南王、西王、北王、翼王と、それぞれ千歳を減じて呼ぶしきたりであった。

 - はっ、東王は江山を打って功績があり、当然、万歳と称すべきです。と答えざるをえなかった。

 - では、たずねるが、東王の世子はなぜ千歳にとどまっておるのか?

 楊秀清の口をかりた天父の下問がさらにつづいた。

p181

 東王はみずから天京にがんばって、北王と翼王とを外地に出した。両派の軍隊が戦いで力を弱めることを期待したのだ。

 だが、当時、広東の天地会系の反乱が相つぎ、天地会を吸収していた小刀会が滅亡したため、石達開軍に広東天地会の兵力が流れこんだ。楊秀清が石軍を武昌に移し、韋昌輝と交代させた理由の一つである。

 楊秀清がおそれていたのは、人望のある翼王、石達開であった。

 天王の位を奪うことについて、楊秀清が最も気にしていたのは、石達開の動きであった。

p192

 東王府内が、騒然となったころには、泰日綱は東王の寝所に踏みこんでいた。楊秀清は裸であった。

「おれの馬丁の梁は、車裂の刑を受けてばらばらにされた。おまえにも、おなじ目に遭わせてやる」

 泰日綱はゆっくりと歩み寄った。

「思い知ったか!思い知ったか!」

 白刃を振り下ろす度、返り血を浴びて朱に染まった泰日綱を、寝所のあかりが照らしていた。

p196

 西玲は、天王に。

「おかしいとおもいません、こんどの北王の言って寄越したことは?」とはっきり言ったのである。

「おかしい?」

 天王は、ほんとうに彼女の言っていることが呑み込めないようにみえた。

「北王は、聖経をよく読み、よく勉強したのだ」

「そうでしょうか」

 韋昌輝と泰日綱が、鞭刑を受けることになり、東王の旧部下はそれを見物するように命じられた。

 やがて彼らの背中は真っ赤になった。二百をこえると、執行者のほうにも疲れがみえた。

 悲劇がはじまったのは、そのあとだったのである。

 北王韋昌輝が連れて戻った部隊を中核とする軍団が、ひそかに朝房を包囲していた。数が三百五十になるのを合図に、第二の皆殺し作戦をはじめることになっていた。

 朝房にはいるときには、武器を持たない規則があった。東王の将兵たちは武器を預けることに疑問をもたなかった。朝房のなかにいた五千の将兵はまったくの丸腰であった。

「三百五十」

 とたんに喊声があがった。

「殺せ、殺せ!」

 北王系の軍隊が、武装解除された東王系の軍隊に襲いかかったのである。相手は素手の上に狭い場所に押し込められていた。

p212

「使いに責任はありませんよ」と、石達開は西玲に言った。

「なんとか北王を説いて、騒ぎをおさめなければなりません。これからこの足で北王府に行きます」

「やめたほうがよくありませんか。‥天王の命令がなくても、昌輝は秀清を殺したかもしれませんよ。あんなふうにみえて、昌輝は自分より上に人がいるのに辛抱できない性格とみえるわ」

「わたしは北王より下です」

「だけど、この太平天国での人望は、あなたのほうがずっと上です。だから危ないのです」

p215

 楊秀清は下の者に威張り散らしていた。韋昌輝も辱められたことがある。彼は揉み手をして、それに耐えていたが、憎しみを忘れたことがないのだ。

 憎悪の怪物。そう呼んでよいだろう。

 仮面を脱がれてみると、おそろしい男を相手にしたものだとわかった。

 北王府を出て、籠のところまで行くと、

「籠に乗って、そこの角を曲がったところで、すぐにとびおりなさい。その横の路地に逃げ込むこと。あなたの命が危ない。わたしは譚七」と囁く声がした。

p218

 翼王が脱出したと知ると、韋昌輝はその夜、翼王府を包囲して、石達開の若い妻や幼い子を殺してしまった。彼の配下の幹部と彼らの家族も殺されてしまった。

p223

 天下第一塔。

 天京の南の門にある大報恩寺の塔は、そう呼ばれ親しまれてきた。江南の名所であるばかりか、中国のシンボルとも見られた。その第一塔が破壊された。

 北王、韋昌輝の命令だった。

 翼王が接近した時、この塔を攻撃用の拠点に用いられないようにあらかじめ潰したのである。太平軍に攻められた清軍でさえそんなことは考えなかった。

p235

 太平天国の強敵は西にいた。天京からみれば、西は上流である。曽国藩が組織した湘南の義勇軍、湘軍を防ぐことが、至上の任務と思えた。

「どうしても西に目が向きますよ」と理文は言った。

「それはとうぜんだが、西にばかり目をむけるのが問題だね。‥上流から攻められたなら、場合によっては南京を放棄して上海まで退いてもいいのだ」

p236

 - 上海に入ってくる船からなぜ税金を取らないのですか?

 イギリス領事オールコックは、呉健章に抗議した。

 上海に入港する船舶と積荷に、関税を課すことになっていたのに、小刀会の反乱で破壊された税関は復活していない。

 イギリス領事は、自国船に関税を支払うように指導していた。ところが、フランス領事は相手が取れないのだから、払う必要はないという態度であった。

 オールコックの抗議は、正直者が馬鹿をみるではないか、というのである。

p238

 この外国人の税関制度は辛亥革命によっても廃止できなかった。1941年に日本がイギリス税関を廃止して日本人税関が誕生した。日本の敗戦によって、やっと外国人税関制度は廃止される。

中略

 よくないことが起こらねばよいが‥。

 そう思っていたところへ、太平天国の内訌のしらせを追いかけるように、広州でアロー号事件がおこったという情報がはいった。

p242

 パークスは早くから孤児になった。アヘン戦争でも活躍した宣教師ギュッラフの夫人が、彼の従姉だったので、パークスは十四歳で広東に渡った。ギュッラフ家の居候となり、ロバート・モリソン二世から中国語を学び、中国関係の専門家となっていたのである。

中略

 アロー号は、清国で造られ、清国人が所有し、清国人水夫だけが乗っていた。

 そのころ、アヘンや政府専売の塩を、法律に違反してはこぶ手段として、その船を香港でイギリス船籍登録することがおこなわれていた。イギリス船籍をもっていれば、清国官僚に臨検されないからである。

p248

 - 東王や北王とはちがう。

 冷たい幹部たちの、これまでの残忍なやり方に、人びとはうんざりしていたのだった。それとはちがうというだけで、彼らはほっとしたのである。

 - なにしろ学問があるからね。

 たしかに石達開は教養があり、ほかの幹部にくらべて穏健であった。だが、それは比較しての話にすぎない。造反に参加したのは、彼がけっしておだやかな人間ではない証拠であろう。

中略

 いまのことばで言えば、ブームになっていた。

 石達開でなければ夜も明けない。

 天王、洪秀全が、この風潮にたいして、不満であったのはいうまでもない。

中略

 信頼できるのは、血のつながった身内だけ。そんな天王の気持に実兄の仁達と仁発とが乗ったのである。新しい派閥がつくられた。反石達開派である。

p252

「戦争にならねばふしぎなほどだ‥」

 連維材は、アロー号事件をそう言っていた。

 パークスは、清朝の回答を拒否した。アロー号はイギリス船であり、その内部でのことはイギリスに捜査権も裁判権もあるという考え方である。仮に乗員に海賊がいたとしても、それを調べるのはイギリスであるから、まずは全員を引き渡せということだ。

中略

 イギリス東洋艦隊のシーモア提督は行動を起こし、広州近辺の清軍砲台を落とし、商館地域に武装兵をいれた。

p263

「太平軍の通った土地は、みな呪われているのです。武昌の陥落を、父上の責任にしようとするたくらみをご存知でしょう。ねぇ、武昌はなぜ落ちたのですか? ほんとうに父上の責任でしょうか?」

「たしかに、わしは湖北から天京に戻ったが、これは天王の要請に従ったことだ」

「では、責任は天王にあるのです。武昌の韋俊が防衛に努力しなかったのは、兄(韋昌輝)が天京で殺されたからでしょう。韋俊の兄を殺したのは天王でした。‥そしたら、これも天王の責任です」と養女、四姑娘は達開に言った。

p265

 石達開が二十万の軍を率いて天京を退出したのは、一八五七年五月のことであった。安慶から天京に戻って、太平天国の宰相として、「軸政」したのは、僅か半年にすぎない。

 石達開退出後の太平天国が、苦境におちいったのはいうまでもない。

 天王の実兄の安王と福王とは、その地位を利用して収賄をこととした。この二人が私腹を肥やしていることは、天京じゅう知らぬ者はなかった。彼らがこれまでおとなしくしていたのは、東王楊秀清の天父下凡がおそろしかったからである。

 二人は四十代後半で狡猾であり、二十七歳の石達開を追い出すことに成功した。彼らの汚職はおおっぴらになり、ついに天王の耳にもはいるようになった。

p268

 やがて、安王と福王の爵位が削られ、蒙得恩、陳玉成、李秀成の三人によって、政治が運営されることになった。陳は、満二十にすぎなかった。幼名は丕成といった。

 彼が若いころに預かっていた新妹は、「そんな大役をふりあてられて、いたいたしいほどだわ」と述べた。

p270

 香港総督ポーリングがパーマストン首相にあてた報告書の中に、

‥アロー号が当時、われわれの保護下になかったことを、ぜったい中国に知られてはならない

 という文章がある。

 アロー号の船籍証明書の期限は一年で、更新には十ドルの手数料を支払うだけだったのだが、これをなおざりにしていたのだ。

p276

 洪秀全の従弟の洪仁干は、干王に封ぜられ政務を総理することになった。やがて陳玉成が英王に、李丕成が忠王に封ぜられて、ようやく太平天国は乱れから立ち直った。

 だが、おなじ年の九月、太平天国は重要拠点、安慶を失った。秀全はこの責任をとらせて干王と忠王を更迭し、再び二人の兄を起用したのである。

p281

 忠王は、安慶の降格処分のあと、焦り美味だった。寿州に食糧があると聞いて苗沛霖に誘い出された。

 苗沛霖は、半ば匪賊、半ば団連で、清朝太平天国を天秤にかけていた。安慶を清軍が取ったので清軍に寄ろうとして、その手土産に英王の首級を持参しようと考えたのだ。

 忠王は猛将だが若輩で、苗沛霖の意図を見抜けなかった。糧食の問題であれば、天京に上奏しても良かったのだが、降格されたばかりの彼はそれを思いつけなかった。英王が失われたのも秀全の出鱈目な人事のせいであったと言える。

p296

 雨花台の清軍は曽国藩の弟に率いられて手強かった。激戦は四十六日に及び、寒くなり英王は攻囲を断念して天京に戻った。秀全はこれを降格し、長江を渡って北伐することを命じた。そして、兵站能力がない実兄たちの無能を理由に食糧は現地調達するように指示したのである。戦乱に疲弊し冬も来ている土地でそのようなことができるはずはなく、英王はすぐに天京に戻らざるを得なくなる。

p300

 太平天国は、もともと五王しかいなかった。それが、いまは王位の粗製乱造である。従弟を干王に封じたあと、金田村から参加していたものが不公平だと言うのに対応して王位を濫造したのだ。

p301

 蘇州では、慕王、康王、など8人が清軍に包囲されて投降した。

「あの八人はどういたしましょうか?」

「あのなかに役に立つ者が一人でもいるかね」

 と李鴻章は訊いた。哀れ8人は処刑されてしまったのである。

 これを聞いた常勝軍のゴードンは、「約束は守らねばならない」と激怒して衝突した。

p304

「譚七さんまで死ぬことはない」と連維材は監禁するようにして譚七を天京に返さなかった。

 譚七が最後に上海へ来たのは天王、洪秀全の死をしらせるためだった。