木挽町の仇討ちで直木賞を取られた永井先生の出世作の一つです。
図書館。

先週土曜に借りて来て、自宅で貸出状態を見たら、次の人の予約が入っていて延長不可になっていたので、読みかけの「アルテミス」を置いて、すぐに読み始めました。
で、金曜日に読み終わり。
ざっくり言って、大河ドラマ「べらぼう」の一世代後の江戸の町人のお話しです。将軍は「べらぼう」の最後に将軍を継いだ一橋治済の息子の徳川家斉。
いろいろなご公儀と町人の経緯の中で、傀儡好き(一橋治済)や、先の将軍家治、松平定信などの名前がちらほら出てきます。
商人、特に金貸しが力を強くしたのは家治が田沼意次を重用した時代でした。その後もご公儀は火の車で、商人から借金してばかり。そんな時期に台頭してきた飛脚問屋の大物、杉本茂十郎の生涯を扱います。
面白いし、勉強にもなるのですが、木挽町から見ると1ランク落ちるので☆は付けられませんか。
視点人物は、茂十郎に兄様と慕われた堤弥三郎です。
本書は、その弥三郎が、後の老中、水野忠邦に茂十郎のことを教えてくれと尋ねられて、最初から語り起こしたという形になっています。
冒頭は江戸の既存の町人権力である十組問屋が、値上げを強行してくる飛脚問屋の茂十郎を宴席に呼び出す場面から始まります。
茂十郎は飛脚の送料を値切って利益にする問屋たちに、物流業者が干上がったら誰も幸せになれないから、適正価格でご利用をと正論を言います。
続いては祭りの日に一橋卿の船が通るのに橋止めをして、開放したら一斉に大勢が渡り出して永代橋が落ちてしまう惨劇になります。この一橋卿は、例の治済の直系になります。
この時に茂十郎の幼子と妻が巻き込まれて死んでしまいます。
天下の永代橋が落ちては江戸の人流、物流にも支障。ところが、お上は金がないので町人たちでかけ直せと言うばかり。
これに激昂した茂十郎は、大店からカンパを募って基金を立ち上げ、それを利用して橋をかけ直しに掛かります。しかし、橋が架けられるだけではメリットが薄いとみる十組問屋は素直に賛成しません。
そこで、十組問屋の要である菱垣廻船問屋の実状を調べ上げ、その所有船が老朽化して事業が衰退しているのを喝破します。そして、集めた基金で橋だけでなく廻船の新造も実施しようと言って首を縦に振らせます。
ここらへんまでは右肩上がりの痛快譚です。
第三部以降は読むのが辛くなります。奢れる茂十郎は久しからず、あまりに大きな実権を握った茂十郎をお上も十組問屋も快く思いません。
火のない所に煙を立てて、北町奉行所は毛十郎と弥三郎を捕縛します。
この件そのものは、追求してくと幕府が基金からじゃぶじゃぶ金を借りていることが発覚するため基金組合頭辞職のみという微罪で決着します。
しかし、商人たちのため、お上のため、江戸の民のために尽くしてきたと信じる毛十郎は大いに失望し行方知れずとなり、ついに弥三郎と再会することもなくどこかで果ててしまいます。
一代の山師の興亡を描いた重量譚なのですが、なにか非常に物悲しいものを覚えました。
p9
弥三郎は苦笑した。
穏やかな好々爺に見えるこの男は、かつて松平定信の手がけた寛政の改革の一つである棄捐令で、札差と大商人を相手に大ナタを振るう役目を担っていた。その後、勘定所御用達となり、大藩の御用を受ける札差として、江戸市中においても大きな力を持つ商人の一人となった。
p29
十八年前、時の老中松平定信の命によって棄捐令が発せられた。棄捐令は、多大な借金を抱えて身動きが取れなくなっている旗本、御家人の救済として、札差の債権を放棄させるお上の命令だ。札差にとって理不尽この上ないこの政策を実行すれば商人たちからの反発は免れない。そこで、猿屋町会所では羽振りの良い大店から上納金を回収し、それを元手に札差から債権を買い取ることで札差の打撃を減らすことを決めた。商人からの反発を抑えながら旗本、御家人らをも救うと言う物であった。しかし当然ながら上納金を回収される商店からは煙たがられることになる。
p69
「これは立派な御座船だ」
なかなかの身分の者が乗っているのだろう。見ると、三艘目の船の上に、見覚えのある侍の顔を見つけた。
「あれは、一橋民部卿の御家中だ」
「華やかなわけですねえ」
茂兵衛は嘆息する。
一橋民部卿は、将軍家斉の弟、斉敦である。
一橋家は、それまで家斉の父である治済を当主としていた。治済は、家斉を将軍職に就けることに尽力した。
p70
その時である。
橋がさながら蛇のようにうねり、たわみ、次いで破裂するような音が響いた。
何が起きているのか瞬時には分からなかった。あっという間に次々に人が川へと落ち、水しぶきが高く上がる。叫び声が響く中、人の上に人が落ち、橋の下に積み重なっていく。
p80
だが、今回の落橋については老朽化もさることながら、祭りの人出と、長時間の橋止めが大きく影響している。もしも橋止めがなければ一気に大勢が渡ることもなかったし、もしも折れたとしてもここまでの惨事にはならなかった。実際、あの時に船で通り過ぎて行った一橋民部卿のご一行に批判の声が高まっている。
p90
「ならば大坂屋、少しはこの井上屋の役に立つ気はあるか」
「出来ることでございましたら、何なりと」
「そうか‥ならば大坂屋。飛脚定法で我ら十組問屋に楯突いたその手腕を見込んで頼もう。砂糖問屋を黙らせい」
p95
「砂糖も食べ物でございますれば、速く運ぶに越したことはございません。それにはやはり、樽廻船なのです」
様々なものを積み込む菱垣廻船の場合、樽詰めされた砂糖のような重いものは船底に最初に積み込まれる。それからほかの品々が積まれるまで、長ければ十日も波に揺られる。
p98
菱垣廻船と樽廻船は、いずれも「千石船」の異名を持つ大きな木造の帆船である。構造にはさほどの違いはない。ただ、菱垣廻船にはその両舷にひし形に交差する垣が設けられている。その格子こそが、御用達の証とされてきた。
p101
「お前さん方、井上屋さんの水主かい」
問われた水主たちは、へい、と頷く。
「随分と年季が入った面々が揃ったね」
茂兵衛が言うと顔を見合わせて笑った。
「いやあ‥若い連中はみんな命が惜しいからって樽廻船に行くんでね
見りゃ分かるでしょう。あのぼろ船に荷を山積みして行くんでさ。菱垣で海の藻屑と消えた連中を何人も知っている」
p107
「だからね、二つの話しを一つに纏めているから厄介なんですよ。一つは砂糖問屋が十組問屋から独立したいって話。もう一つは、菱垣廻船がもう商いとして成り立っていかないっていう話。これ、別々の話なんじゃありませんか」
p162
重い沈黙が下りて来る中、樽屋は意を決したように膝を前に進める。
「お奉行様。せめて旦那衆の話だけでも‥」
「ご無用です」
茂十郎は樽屋の言葉を遮った。
「繰り言のような話をお聞かせしたところで、会所を潰すわけにはいかないとお奉行様も仰せです。だとしたら聞くだけ無駄というもの」
p179
三井家は室町の時代から続く豪商の一族である。京都、江戸、大坂に呉服商や両替商を営んでおり、それらの莫大な全資産を預かるのが、三井同苗と言われる十一家からなる三井一族だ。その頂点である北家の惣領がこの八郎右衛門である。商人といえども及ぼす力は、大名にも勝るとさえ言われていた。
p209
「あれはね、中野播磨守という人の屋敷です。小納戸方のとうどりなんですけれどね」
小納戸方頭取といえば、お目見以上の幕閣ではあるが、そこまで羽振りのいいものでもない。分不相応な屋敷と言える。
「その人の娘が、上様のご愛妾のお美代の方というのですよ。そのおかげで、小納戸方の頭取に出世。さらには付け届けが引きも切らず、こうして御屋敷が建ってしまった」
p211
それから間もなく砂糖の抜け荷が急増しているという話が聞こえて来た。砂糖問屋の一件以来三橋会所とは縁が深い河内屋によると、
「江戸市中に仲間外商人が商う砂糖が増えています。少なくとも江戸で作れるものではないのに、何処から湧いて出てくるのか分からない。皆知らないのです」
p214
「一体、何にそんなに金がかかるんだ」
「政ではなさそうですね。一橋民部卿、一橋の大殿、そして大奥」
将軍家斉は艶福家として知られ、四十人を超える側室を大奥に抱えている。それは歴代の将軍の中でも群を抜いて多く、そこで生まれる若君、姫君らにかかる費用も国庫を圧迫していると聞き及んでいた。