パワープレイをするプレイヤー層と、それを前提としたデザイン

(承前)
『ゲームを2回、3回とやりこんでいく人にしか、ゲームの醍醐味に到達できない作りなのだという気がする。』
と書いたのだが、これは近年のユーロゲームの傾向とも相俟ってゲーム界全体のあまり嬉しくない方向性だという気がする。
ウォーゲームは元来が80年代のブームを経て90年代の不毛期を乗り越えたり、それを越えて復帰してきた人の集まりなので、かなりプレイヤーの意識が高く、プレイに掛ける労力が大きいことも受容されているし、それを乗り越えて到達できるものに対する評価も高い。
そんなこともあって、「簡単なゲーム」=「底の浅いゲーム」的な価値観も少なくないように思う。
そういった購買層を前提とすると、デザインサイドも「ある程度の労力負担をプレイヤーに求めても支障はない」ということになるし、「そこまでプレイしたときに初めて見えてくる醍醐味を設定しても、きちんと評価してもらえる」ということになっていると思う。
「ドイツ戦車軍団」の「ハリコフ」などは典型的な例で、ルールは難しくないのですぐプレイできる。しかし、長期的な戦略眼を持って、ゲーム終了時のVPの見通しを持って初期の部隊展開や増援の投入計画を考えられるのは、どう考えても初回では無理で、かなり勘の良いプレイヤーでも2回目以降、人によってはもっとプレイ回数を重ねてからということになるだろう。しかし、それでも「ドイツ戦車軍団」は80年代においても一定の評価を受けたし、近年、再びシリーズ化され、マップの規模が大きいシナリオにも適用されている。これは、ウォーゲームにおいては、そういうデザインは「あり」なのだということに他ならないように思う。

ユーロゲームもウォーゲームに近付いていないか?

そう考えていくと、最近のユーロゲームも、かなりウォーゲームに近付いてきているように思う。
つまり、「ある程度の労力負担をプレイヤーに求めても支障はない」ことが前提となり、「初回のプレイでは指針が見えず醍醐味に触れられないようなものであっても許容される」ことがデザインサイドからも共通認識となり、むしろ積極的に「何回もプレイしないと醍醐味に触れられないようなゲームが、ゲーマーズゲームとしては価値が高い」と評価されるような土壌になってきたのではないかという気がする。
これをゲームシステムの進化と呼べば呼べるし、進化の袋小路と危惧するのも一理も二理もあると思う。
ウォーゲームは実際にそういう行程を辿る中で、大幅にプレイヤー人口を減らした。それが良かったかどうかは人によって評価が異なるだろう。プレイ相手を見つけにくくなったと言う弊害の一方で、互いに一定の労力を越えてゲームをプレイする同志であることが期待できるようになったと言う利点もあるからだ。
ただ、飽くまで個人的な意見ではあるが、ユーロゲームが同じ道を辿るのには賛成しかねる。ユーロゲームは、ファミリーゲームとして、ゲーマーでない人とも遊べるし、そういう一度しか同じゲームをやらない人にも一回目で楽しさを感じてもらえるのが良い点だったと思っている。
近年のユーロゲームは、そうした部分が失われてしまっており、ホームパーティーの席で出すゲームをどれにしようかと考えると、結局、80年代から90年代前半のゲームを押入れから引っ張り出すことになるような現状は結構、痛いような気がする。
特に昨年は、「アグリコラ」や「ブラス」など、そういう弊害を強く感じさせるゲームが続いた。後半に出たスマッシュヒットである「ドミニオン」にしても、ゲーマーでない人にいきなり説明して遊ぶのにセレクトできるかと言うとNOだった。トレーディングカードゲームブームを一緒に経験し、その労力と出資の負担に耐えかねて脱落した同世代のゲーマー同士で遊ぶと、手軽にトレカの醍醐味を再現してくれる部分が嬉しいというのが本音だろうか。
進化=複雑化の過程は、適応能力の低下という弊害を伴うというのは、ゲームの世界でも成り立っており、それはウォーゲームに続いてユーロゲームでも繰り返されるのだろうか。