○ヴァンドーム公 ブルボン

オーストリア継承戦争の序盤戦でイタリア方面で連敗したフランス軍は、建て直しのためにヴァンドーム公を派遣した。しかし、ヴァンドーム公もルッサーラの戦いに敗北してしまう。しかし、ヴァンドーム公はしぶとく状況の改善に努力し、ついに1705年、カッサーノの戦いでオイゲンに勝利した。オイゲンが前線から本国へと退いた時期に勝利を拡大したが、マールバラ公に対して劣勢にあったネーデルランド方面へと転戦を命じられた。その結果、イタリア方面ではフランス軍は前線に復帰したオイゲンにトリノの戦いで敗れ、折角の優位をふいにしてしまった。
ネーデルランド方面では、ブルゴーニュ公、ベリック公と意見が衝突し、結果としてリーレ包囲戦で敗北してしまう。この結果にフランス軍の指揮を執ることに失望し隠退してしまった。
しかし、新スペイン国王フェリペ5世に請われてスペイン軍の指揮を執ることとなり、ブリウエガ、ビジャビシオーサの戦いで軍功を挙げた。しかし、1712年に急死、戦争の決着を見ることはなかった。

○ベリック公 フィッツジェームス

スペイン継承戦争の開戦時にはネーデルランド方面でブーフレール公の下にいた。その後、ヴィルロワ公の下に異動。1704年に指揮権を与えられてスペイン方面へ転戦した。
同盟側に参戦したポルトガルを相手に活躍したが、スペイン王になったフェリペ5世と意見が衝突して左遷される。
1706年にイタリア方面での軍功で元帥となり、再びスペインに派遣されてフェリペ5世と共に戦った。1707年アルマンサの戦いでフランス・スペイン連合軍を勝利に導き、フランスとスペインの両方で爵位を叙された。
1708年、ヴィラール公に代わってドイツ方面の司令官となった。劣勢となっていたヴァンドーム公の救援に駆け付けたがヴァンドーム公と衝突、結果としてリールは陥落することとなった。
1714年、バルセロナ包囲戦に勝利して長年の懸案だったスペイン戦線の決着を付けた。
フランスの諸将の中では優秀だったと言われるが活躍の場がスペイン方面だったことから戦争全体を左右するような軍歴には恵まれなかった。

×ブーフレール公 フランソワ

スペイン継承戦争の緒戦のネーデルランド方面の指揮官。
マールバラ公の大胆な機動作戦に翻弄され敗北を続け、ヴィルロワ公と交代させられ指揮下に入った。1708年のリーレ包囲戦で包囲された当事者で、3カ月を越える包囲戦を戦ったが降伏した。
マルプラケの戦いでは痛み分けながらも、途中で負傷したヴィラールに代わって整然とした撤退で損害を抑えて最後に一矢報いた。

○ヴィラール公 エクトール

スペイン継承戦争の緒戦ではドイツ方面にいた。フリートリンゲンの戦いで神聖ローマ帝国軍を破って元帥に昇格しドイツ方面の司令官となった。
1703年秋にはアウグスブルグを奪取し、ウィーンに迫る勢いを見せた。しかし、バイエルンのマクシミリアン2世との折り合いが悪かったことからフランス国内に異動させられた。結果、1704年のブレンハイムの戦いで、マールバラ公とオイゲンの同盟軍に、フランスとバイエルンの連合軍は大敗を喫してしまった。
このためヴィラールがドイツ方面に再任され戦線を建て直したが、戦況が安定すると再びマクシミリアン2世との対立が再燃。今度はネーデルランド方面へ異動となった。
ネーデルランドではマルプラケの戦いで痛み分けを演じ、ブーフレールと共に損害を最小限に抑えて一矢報いた。
フランスの諸将の中では軍事的には優秀だったとされるが、同盟国のバイエルンとの衝突で能力を十分に発揮することができなかった。

×タラール公 ドスタン

スペイン継承戦争の開戦時にはブーフレール公の下でネーデルランド方面にいた。1703年にドイツ方面に異動、シュパイアーバハの戦い、ランダウの戦いで神聖ローマ帝国軍に勝利して元帥に。
1704年、マールバラ公とオイゲンの合流阻止に失敗、ブレンハイムの戦いで捕虜になり1711年まで虜囚としてイギリスで過ごすことになる。帰国後に叙爵された。

×ヴィルロワ公 ヌフヴィル

スペイン継承戦争の緒戦でイタリア方面の司令官を務めたが、オイゲンに連敗しクレモナの戦いでは捕虜になる。復帰後はネーデルランド方面に異動させられた。しかし、ネーデルランド方面でも1704年にマールバラ公にブレンハイムで大敗してしまう。さらに1705年にもラミイでマールバラ公に敗北してネーデルランド方面を喪失し更迭された。