アナコンダ作戦に向けてアフガニスタン小史

近年戦乱が絶えずニュースに名前の出ることの多い国だが、筆者の時代の世界史や地理の教育ではほとんど聞くことがなかった。
場所は、東と南がパキスタン、西がイラン、北は旧ソヴィエト。中東とアジアとインドの交差点的な位置にある。先日のアーリア人の主要舞台だ。
交差点的な位置にある国の常だが、色々な民族や帝国が通過して複雑な歴史を辿ってきた。青銅器文明の遺跡があるので紀元前2000年前後には既に居住者のあった地域とされる。
紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシャ、紀元前4世紀にアレクサンドロスに支配された。
1世紀にクシャナペルシャ、3世紀にササン朝ペルシャと移り変わる。
5世紀にエフタル、6世紀に突厥の支配を受ける。
イスラム化されたのは8世紀にアッバース朝の支配を受けた時。10世紀にはホラズム王国が立った。14世紀にはモンゴル帝国の支配に。15世紀はティムール、16世紀はムガールの支配に。
18世紀にパシュトゥーン人のドゥラーニー朝が立ち現在のアフガニスタンに繋がる国家が成立した。
イギリスがロシアの南下に先制する目的でアフガンに侵攻。1838−42年の第一次アフガン戦争ではアフガンが勝利。しかし、1880年からの第二次アフガン戦争で敗北して保護国化された。しかし、1919年、イギリスに対するジハードを立ち上げ独立を回復、アフガニスタン王国となった。
1973年、クーデターでムハマンド・ダーウードが国王を追放して共和制大統領に。ソビエトと接近して脱イスラム化政策を取るようになった。
しかし、1978年、社会主義クーデターである四月革命でダーウードは殺害され、ターラキー評議会議長が実権を握る。しかし、これに対してイスラム国民がムジャヒディーンとして蜂起、いわゆるアフガニスタン紛争が開始された。ソビエト軍は評議会の要請を受けたとして治安出動と称して侵攻、ムジャヒディーンと長い紛争を開始した。この時期にはアメリカCIAはムジャヒディーンを支援しており、その中に若き日のオサマ・ビンラディーンもいた。
1982年に国連がソビエト軍撤退決議を出した。1987年にナジーブラーが大統領に就任しソビエトと停戦。1989年にソビエト軍の撤退が完了し、ソビエト対ムジャヒディーンの紛争は終結した。しかし、その後の統治を巡って内戦が発生、紛争は第二期に入り、新しい形に変わって継続することとなった。
1992年にムジャヒディーンのイスラム政権が発足。ラッバーニーが大統領となった。だが、内戦はその後も継続、その中でターリーバーンが台頭してきた。
ターリーバーンは1996年に首都カブールを掌握した。これに対抗する勢力は北部同盟を形成した。この時期、スーダンを追放になったアルカイーダ一派がターリーバーンの庇護を求めてアフガニスタンに移動したと考えられる。
1999年、ターリーバーンに対する国際経済制裁が発動される。
これに対して2001年にターリーバーンはバーミヤンの石窟仏像を破壊し、これが国際世論の大きな反発を招く。そして、9月11日、アメリ同時多発テロが世界を震撼させることとなった。
アメリカは同時多発テロの首謀者はアルカイーダと断定、その引き渡しをターリーバーンに求めるが拒否される。
これによりアメリカは多国籍軍を組織し、アフガニスタン空爆を開始する。此処からがアフガニスタン紛争の第3期である。空爆は成果を上げ、北部同盟が首都カブールを制圧し、ターリーバーン政権は崩壊した。カルザイ暫定政権が形成された。
アルカイーダ一派はパキスタン国境地域に潜伏しているとされ、これを殲滅するために多国籍軍北部同盟と共同してアナコンダ作戦を実施した。