元大相撲力士「網走洋」。
日本プロレスに入門し、最後の崩壊までいたレスラーの一人。全日本への救済合併で全日本入りした。1976年に同じく大相撲から転向してきた天龍の海外修行に同行してアメリカへ。だが、ファンク道場でエリート扱いで修業した天龍とは一緒に扱われず、一人で南部、プエルトリコ、カナダを転戦するカミカゼレスラーとなった。どうも日本プロレス最終残留組は、上田などもそうだが馬場に冷遇されていたとしか思えない。そんな訳で帰国命令も出ず、アメリカマットで中堅レスラーとして地位を築くようになる。
その桜田が日本に帰国したと思われるのが全日本プロレスに登場した覆面レスラー、ドリームマシンである。ドリームマシンは体格も良く、パイルドライバー、サイドスープレックス、カナディアンバックブリーカーなどを使いこなす実力者だった。当時、ドリームマシンなる覆面レスラーがアメリカマットにいたのでそれかと思いきや、某プロレス誌が現地に確認したところ本物はアメリカで試合中。全日本に来たのは誰か?と話題になり、正体桜田説が浮上した。
ドリームマシンは再来日して佐藤・石川のアジアタッグにも挑戦するなど中堅で活躍した。しかし、石川の秘密兵器ジャーマンスープレックスに敗れ去っている。
その後はアメリカに活躍の場を戻し、当時流行したペインティングレスラーとなってケンドー・ナガサキを名乗る。このリングネームも本家はイギリスの覆面レスラーだと思うので、パクリレスラーだったのだと思う。ここらへんプッシュのない一匹狼カミカゼレスラーの苦心なのだろうと思う。
そんな経歴で全日本に特に帰属意識が無かったのか1985年に正式退団。その後、アメリカ修業に来た新日本の後藤達俊と合体して覆面チーム、ライジングサンズ1号、2号を結成する。その関係からか新日本のIWGPタッグリーグに参戦。パートナーは、なんとミスターポーゴであった。ポーゴについてはまた別に書く機会があればその時に。
このチームは期待されていたのか開幕戦でTVに映った。しかし、白星配給係と目されるキラービーンズを仕留めるのに苦労して期待を裏切り、その後はあまりプッシュされなかった。
その後、猪木対マサ斉藤の前哨戦として猪木と対戦して、「仮想マサ斉藤」などと古舘アナに呼称されたのが新日本での最後の活躍か。
創立直後のFMWに参加したが定着せず、結局、新興団体SWSで「檄」のリーダー格として参加することになった。だが、SWSの方が団体として安定することができず崩壊。檄のメンバーで新団体を作るも、これも続かず。
最後は日本プロレス崩壊メンバーの同士だった小鹿の大日本プロレスへ。小鹿の総合格闘技参入の野望の切り札として使われ初戦は勝利するも、その後は成果を挙げられずに撤退。以後は飲食店経営をしていると聞く。
年齢、体格、マットでのファイトぶりなどを考えれば、全日本がもっとプッシュしていればプロレス黄金時代に活躍する群雄の一人には成り得た素材だったと思う。しかし、当時の全日本プロレスでは馬場に冷たくされてはチャンスはなく、その割には頑張ったと言う評価だろうか。日本プロレスに最後まで残らずに、坂口と新日本に移っていれば、レスラー人生も違っていたかも知れない。