なつかしの昭和プロレス:キラーカーン

bqsfgame2012-11-09

元大相撲、越錦
日本プロレスに入門し、実はデビュー戦の相手が桜田である。
桜田と違い、小沢は坂口と共に新日本プロレスへ。新弟子時代に小沢が藤波を肩車して会場設営をしている写真は、有名なのでご存知の方も多いだろう。この二人でカールゴッチ杯の決勝を争ったこともある。
2m近い巨体で大型外人レスラー相手に通用する素材として期待され海外武者修行へ。メキシコマットでモンゴル人ギミックのテムジン・モンゴルに変身する。
メキシコからフロリダへ転戦、この時にアメリカ人に判りにくいテムジン(チンギスハーンの幼名)からキラー・カーンに変更した。フロリダではトップヒールになり、ブリスコやローデスと戦うように。ジョージアを経由してWWF入り、1980年の年末のMSG定期戦で、なんとバックランドに挑戦することに。この時は新日本のNY遠征と重なり、日本のTVでもオンエアされた。日本ではカーンの試合を先に放映し、猪木の試合(たしかボビー・ダンカン戦)を後に持ってきたが、もちろん現地では猪木を抑えて堂々のメインイベント王座挑戦だった。
この試合では珍しく山本の歯切れが悪かった。一つには、上記の事情を日本の中継では話せないこと、今一つにはカーンが典型的なショーマンタイプのラフヒールで新日本のストロングスタイルと方向性が違ったことなどがあったと見られる。
ともあれ、新日本に早期から加入した期待の若手だったので新日本マットに凱旋帰国。その年のMSGタッグリーグ戦では、全日本から加入した戸口とタッグを組んで日本人大型タッグチームとして活躍、決勝戦まで進んだ。この時期にアメリカマットでは有名なアンドレの足折り事件で全米トップヒールに立った。
しかし、翌年になると長州の噛ませ犬発言から長州対藤波が新日本マットの焦点になってしまう。その中でカーンは、長州、マサ斉藤アニマル浜口らの革命軍(すぐに維新軍に改称)に連携するアングルが組まれる。これは実質的にカーンを長州より格下に置くこととなり、全米のトップヒールであったカーンを新日本マットで一本立ちさせる絶好のタイミングを逸してしまうことになった。以後、カーンは、桜田ほどではないが日本マットでは実力相応の処遇を受けることがなくなってしまう。
ジャパンプロレスの全日本マット参戦に伴って全日本マットへ、しかしそこでも長州主軸のストーリー展開の中では輝くことができなかった。
やがてカーンはアメリカマットへ回帰し、鉄の爪王国に参戦。しかし、既に往年のポジションはなく、フリーバーズの用心棒だったと言うから寂しいものである。この流れで全日本の年末タッグにゴーディと組んで逆上陸したりもした。その後、WWFへも復帰、当時のトップのホーガン、サベージらと抗争したのが最後の活躍となった。
その後は飲食店経営。新宿でちゃんこ居酒屋カンちゃんをやっている。
桜田もそうだったが、素質から見れば日本マットでは冷遇され活躍しきれなかったレスラーの一人だと思う。特に全米トップヒールとして凱旋しながら、長州の軍団の手下扱いされたのは余りにも痛かったと言えよう。長州−藤波名勝負数え歌の被害者の筆頭だと言える。
猪木を差し置いてMSGのメインイベントを務めたのが猪木の嫉妬心を買ったのだろうか? 桜田、小沢、そして上田、戸口、関川などの経歴を見るにつけ、アメリカマットでカミカゼレスラーとして自立した実力者たちが日本マットではことごとく不遇であるのは日本マットの狭量さを感じさせるように思う。