なつかしの昭和プロレス:高千穂明久

bqsfgame2012-11-10

グレート・カブキである。
日本プロレス入門、高校時代は水泳をやっていたと言われると体型的にナルホドと思わされる。日本プロレス末期に海外遠征、猪木、馬場が相次いで離脱した危機に緊急で呼び戻され日本プロレス最後のUNヘビー級王者となる。日本プロレス崩壊で返上。
その後は全日本プロレスに参加、大木、上田などと比べれば、それほど冷遇はされず若手として普通の待遇を受け、サムソン轡田アジアタッグ王者にもなった。しかし、小鹿、大熊組に奪われて無冠になり、以後はアメリカマットに活動の場を移し、日本マットには一向に帰国しない存在となり冷遇コースに入った。だが、1980年にペインティングレスラーの草創的な存在であるグレート・カブキに変身してアメリカマットで一気に成功を収める。なぜか歌舞伎なのにフィリピン出身だったり、そこらへんはアメリカでは全然本質は理解されないまま、オリエンタル怪奇派として新しいジャンルを切り開いた。全日本マットから武者修行に来た園田(マジックドラゴン)と合体してタッグでも活躍した。ペインティングだけでなく、ヌンチャクや、毒霧殺法を用い、彼のやることが後のオリエンタル怪奇派のスタンダードになっていった。
当初は1シリーズの繋ぎ役だったはずが、予想外の人気を博して常連レスラーとなり、カブキも以後ずっとカブキとしてファイトし続けることになる。そして、カブキのまま日本に凱旋帰国することに。日本マットでは、同じくペインティングレスラーに変身した上田の「天狗」と対戦したり、まさかの仲間割れでマジックドラゴンと対戦したりした。
しかし、桜田やカーンもそうだったが、アメリカでの格に比べて日本マットでの扱いは中途半端と言わざるを得ず、特にそれはギャラに明確に出ていたらしい。
アメリカマットで一人で渡り歩くカミカゼレスラーは、一種の自営業者であるからギャラには敏感にならざるを得ない。結局、この面から所属団体との関係が疎遠になってしまうケースがどうやら多いらしい。
親団体側から見ても、親団体側で用意したアングルに乗せにくく、また実際に反発して乗らないカミカゼレスラーは長期的なプッシュをしにくい存在なのかも知れない。結果として短期的な視点で都合よく使って、上手く行かなくなるとアメリカに引き上げてもらうと言うことになりがちなようだ。
カブキも凱旋帰国時には視聴率に大いに貢献したにも関わらず、日本側の主力としてタイトル戦の機会をもらう訳でもなかった。ジャパンプロレスが上陸してくると、対抗戦の戦力にされたが、そこでも中途半端な助っ人でしかない。SWS発足時にカブキが全日本を離脱したのは当然の選択だったのだろう。
しかし、SWSは早々に崩壊。桜田もそうだが、SWSは多くのレスラーを不幸にした黒歴史団体だったように思う。
その後はフリーランスとして新日本マットにも登場。カブキのオリエンタル怪奇派の流れを汲むグレート・ムタとも対決した。この試合では、その流れを受けてムタを「マイ・サン」と呼び、流血の親子対決となった。これは、当時大人気だったスターウォーズのダースベイダーとルークスカイウォーカーの関係をも意識していたと思われる。
1998年に引退。引退時には、ナガサキとのオリエンタルミステリーズや、ムタとの親子タッグが実現。カブキのアメリカンショータイプレスラーとしての成功を総決算するような花道となった。
年齢順に書いている本連載だが、たまたまこの世代にはアメリカで成功し日本で冷遇されたレスラーが並ぶこととなった。日本マットで主力となったレスラーたちの後継者になるには世代が近すぎ、かと言って無名のまま消えていくには強すぎたレスラーたちの群像である。