なつかしの昭和プロレス:ミスターポーゴ

bqsfgame2013-02-03

鶴田、長州と同じ1951年生れ。
父は県会議長と言う名士で、本人も柔道推薦で中央大学へ進学した列記とした学士レスラー。相撲界に入り天龍と同じ二所関部屋で序二段まで進んだがプロレスへ転向、新日本に入団した。当時の新日本はコマ不足だから格闘技経験者の入門はウェルカムだったろう。で、早々にデビューしたのだが、どうしたものか1シリーズで退団。退団ではなく追い出されたのだとも言われており、その首謀者は山本小鉄とも言われる。
その後はカミカゼレスラーとしてプエルトリコを中心に活躍。日本への凱旋は国際プロレスに1976年と言うが筆者は見ていない。1985年に新日本へナガサキとのペイントレスラータッグで逆上陸。しかし、ナガサキの所でも書いたがタッグリーグ戦ではケリーツインズに勝つのがやっとで不発に終わった。
1990年に大仁田のFMWで最初のライヴァルとなり壮絶な流血戦でブレーク。そこで名勝負を数えていればポーゴ自身もFMWも違った道があったと思うが、デスマッチ路線の新団体WINGを結成して独立。インディ団体が雨後の筍のように出てきた時代背景があってのことだが、それにしても展望不足。団体はさらに分裂し迷走していった。結局、FMWへ戻ったのでは、WINGとは何だったのかと言われても止むを得ないだろう。
いずれにせよデスマッチ路線のインディ団体と言う存在を日本に根付かせた重要な流血派の一人であることは間違いない。名士の息子の学生柔道家からの流転の人生は、それはそれで一代記であろう。近年、自伝を発表した。