なつかしの昭和プロレス:高田延彦

bqsfgame2013-02-24

1962年生まれ。
中卒で新日本入門の叩き上げ。猪木の付け人だった。
コーナートップからのミサイルキックで前座時代から人気を博し、山崎一夫との対戦は前座の名勝負として有名だった。このカードはなんとオンエアされたこともある。
タイガーマスク離脱後のジュニアへヴィー戦線の役者の一人と目されていたが、藤原と共に第一次UWFに参加して離脱。第一次UWFの重要なメンバーの一人だが、なにせ前田、藤原、佐山、木戸の次の5番手と言うのでは、なかなかブレークしきれなかった。
UWF崩壊後の新日本上陸ではキックと関節技の荒くれ二挺拳銃と称されて活躍。越中とのジュニアへヴィー版名勝負数え歌は毎回おそろしく激しいファイトになった。
第二次UWFでは前田に次ぐナンバー2となったが、人間関係の縺れから団体は空中分解。高田はUWFインターのエースとなって、ついに団体のエースとして戦うようになる。UWFインターは、格闘技色からプロレス色へと回帰して様々なアングルを取り入れ独自の世界を作り上げた。ベイダーやハシミコフと言った新日本で評価の確定した大物外人とも積極的に戦ってプロレス最強の地位を主張した。しかし、人材難に苦しみ、結局、古巣の新日本との対抗戦に活路を求めるようになった。当時、新日本のエースになっていた後輩の武藤と対決、初戦では敗北するもリベンジに成功して外敵として初めてIWGPのベルトを巻いた。だが、さらにレスラーの流出が進み団体はついに解散に至った。
高田は新日本が若手をヤングライオンと呼び始めた最初の世代だが、当時はヤングライオン杯がなく売り出しコースが決まっていなかった。タイガーマスク後の一人だったが、高野俊二ヒロ斉藤など上が支えていたこともありベストタイミングを逸し、結果としてUWF参加から独自の道を歩みだしていった。UWFでは5番手だったが、その後の団体分裂の中でエースの座を掴み、一定の成功を収めることができた幸運な一人と言えるだろう。