なつかしの昭和プロレス:小林邦昭

bqsfgame2013-02-14

1956年生れも豊作だが、その一人。
新日本に入門。デビューから中々芽が出なかった苦労人の一人。
初代タイガーマスクが圧倒的な人気を博して地位を確立した翌年の1982年にメキシコ遠征から帰国。初代タイガーに挑戦する新たなライヴァルとして台頭した。ちょうど長州の革命軍が形成される時期で、本隊(藤波、タイガー)と対立するメンバーは革命軍と言う整理で同じ虎狩り戦士の寺西と共に革命軍へ。と言っても長州と藤波の対立とは関係がないので、飽くまでジュニア戦線でのタイガーのライヴァルのポジションだった。
タイガーマスクが負傷返上した王座決定戦でダイナマイト・キッドと対戦した時が小林の新日本での最大のチャンスだったと思う。しかし、キッドに「小林など聞いたこともない」とコメントされ試合でも敗れてしまう。
その後はジャパンプロレスに参加して全日本プロレスへ。全日本プロレスでは、引き抜きで全日本に参戦してきたダイナマイト・キッドからNWAインターのジュニアへヴー級の王座を奪って初戴冠。しかし、此処では二代目タイガーに敗れて陥落してしまう。
その後、新日本に出戻り、此処ではIWGPジュニアへヴィー級王座を越中から奪取。しかし、馳に敗れて陥落してしまう。
その後は胃癌で手術を繰り返すなど病気に苦しみ引退。
王座の在位記録は短いが、二人のタイガーマスクと戦ったライヴァルとしての小林の存在感は大きい。特に初代タイガーのライヴァルとしては、キッド、ブラックタイガーに次ぐ3番手に名前が挙がるだろう。
小林の引退試合には、佐山が花束を持って、三沢は電報でメッセージを送って寄越したそうだが、そういう存在だったと言うことである。
個人的には日本マットで最初に網打ち原爆を使ったレスラーとしても印象深い。比較的出しやすいスープレックスと言うことで女子プロなどでも良く見るようになった技だが、小林の最初の物だけが説得力があったように思う。