なつかしの昭和プロレス:佐山聡

bqsfgame2013-02-21

1957年。
若手時代から格闘技志向があったと聞くが当時は見たことがない。メキシコへ遠征、ベビーフェイスで活躍。続いてヨーロッパへ遠征、彼の地でも人気を得た。突如、帰国命令が出て出来の悪いタイガーマスクの覆面をかぶらされてダイナマイト・キッド相手にデビュー戦。
この試合でのキッドをコーナーに振っておいて、その胸を蹴ってトンボを切るサマーソルトキックで観客をどよめかせた。ローリングソバット、ジャーマンスープレックスなどを使い、打撃、空中、投げのすべてで高い水準を見せ一躍人気者となった。
藤波がへヴィー転向で返上したWWFジュニアへヴィー王座をキッドとの王座決定戦で奪取。続いて以前に書いた私物化されていたソントンのNWA王座も奪取。藤波の後を継いでジュニアへヴィー無敵街道を驀進するようになった。
その中でヨーロッパ系レスラー、ベテランのスティーブ・ライト、ブラックタイガーとして設定されたマーク・ロコ戦は苦戦した。また、ジュニアへヴィーではなかったが、クリス・アダムスと対戦してスーパーキックで流血して苦戦したのも印象に残っている。虎ハンターとして小林邦昭が台頭すると日本人対決でも熱戦を繰り広げた。
人気絶頂だった1983年夏、小林、寺西の相次ぐ挑戦を退けたところで契約解除して新日本を離脱。タイガージムを立ち上げた。知財権問題がありタイガーマスクは名乗れず、しかし知名度を利用したいのでザ・タイガーを名乗る苦肉の策を取った。この時に付け人の山崎一夫が一緒にタイガージムに移っている。
前田らの第一次UWFが立ち上がると、そのリングにスーパータイガーとして上がるようになり合流した。
しかし、シューティングルールに関する確執から離脱、この時に山崎はUWFに残り佐山と袂を分かった。その後は断続的にイベントに登場する程度になってしまった。
プロレスブームの最大の功労者でありながら、プロレスの枠から飛び出してしまった格闘家である。タイガーの後に、それを継げるような人材を輩出できなかったことは、プロレス低迷の最大要因だろう。