1953年生れ。鶴藤長天の中では一番若い。
日本プロレス時代の入門で猪木の付け人。猪木追放事件では山本ほど断固たる猪木支持ではなかったようだが新日本に参加。若手によるゴッチ杯で優勝し、コマ不足の中だが期待されてゴッチの下へ海外修行に木戸と出た。木戸が帰国すると別行動でアメリカマットへ移動。1978年、MSGでエストラーダを破ってWWFジュニアへヴィー級王座を奪取した。そして、王者として凱旋帰国し、当時はジュニアへヴィー級では無敵に近い活躍を繰り広げ、途中、剛竜馬に一時王座を奪われるもへヴィー級転向まで圧倒的な強さと人気を誇った。ジュニアへヴィー級と言うジャンルが日本プロレスにあるのは、彼の活躍なくして考えられないだろう。
ダイナマイト・キッド、カネック、スティーブ・カーン、木村健吾などライヴァルにも恵まれ、彼のタイトルマッチヒストリーは非常に華々しかった。彼のへヴィー級転向後は初代タイガーマスクが登場し、さらに盛り上がったのは周知の通り。
しかし、へヴィー級転向後は順調には行かなかった。日本プロレス以来の伝統である十番勝負として飛龍十番勝負を設定されたが、初戦のバックランド戦は「長すぎたキーロック」と言われる執拗なキーロック攻撃で盛り上がらないまま敗北。以後もハンセン、ホーガン、ブッチャーらに敗北。マードック戦でリングアウトで白星、カネック戦でも勝利したが、結局、第7戦と思しきベンチュラ戦までで立ち消えになった。
外人大型選手相手に説得力のあるファイトが出来ない状況を救ったのは、結果的に長州力の台頭だった。この名勝負数え歌でへヴィー級レスラーとしての藤波が成立するようになった。長州との戦いの後は、UWFから出戻った前田との対決。さらには、マシン軍団のマシン1号との対決など、日本人ライヴァルとの戦いで輝くようになった。
しかし、ライヴァルが次々と新日本マットから姿を消す中、藤波のポスト猪木の地位は固まるよりもむしろ不安定になった。理由は藤波がエースとして輝くようなカードが逆に作りにくくなったからだった。
結果として、タッグリーグ戦で初めて猪木をフォール、その後は長州の出戻り後の世代抗争の流れの中でマットの主導権を掌握していくことになり、期待されたよりもずっと遅い時期の世代交代となってしまった。
それでもIWGP王者となり逆に猪木の挑戦を受けて防衛するなどして新日本のエースとなり、WWFに押されて混迷を迎えていたNWAへの新日本の悲願とも言える挑戦を実現し一度は勝ち名乗りを受けた(WCW側の提訴で無効)。
坂口後の社長に就任したが、この人も経営者としては問題があったと言われる。結局、退団して無我を結成。しかし、この団体もさらに分裂していく。
個人的な意見だが、結局、藤波の全盛期はジュニアへヴィー級時代だったように思う。そして、次期エースとして期待されている姿の方が、本当にエースになってからより輝いていたと思う。日本マットだけでなくアメリカマットの混迷もあって難しい時代にエースになったのは不運だったが、主導権を取ってプロレス界をリードして欲しかった人材なのに果たせなかった。