なつかしの昭和プロレス:剛竜馬

bqsfgame2013-02-10

1956年生れの中で語って置きたい一人。
国際プロレスの新人発掘企画でデビュー。鶴見と海外武者修行へ。ファン公募でリングネームを決めたと言うから期待の新人だった。
ジュニアへヴィーと言う新ジャンルが沸騰する新日本に藤波挑戦を標榜して参戦。ちょうど狼軍団アングル展開中だったので、そこに組み込まれる形で新日本上陸を果たした。グリーンボーイ時代の長州を破って藤波挑戦を実現させ、三度目の挑戦で逆さ抑え込みで最強王者藤波から王座を一時奪取した。しかし、リターンマッチで敗戦、正式に新日本に入団した。
しかし、入団後はあまりプッシュされず、結局国際プロレス崩壊で対抗戦のためにやってきたアニマル浜口の復帰第1戦の相手を務める。その後は、新日本メンバーなのだが、ストロング小林と共になんとなく新国際軍団寄りの微妙なポジションに。
ラッシャー木村と海外遠征して、エキゾチック・エイドリアン組を下してアメリカスタッグ王座を奪取したのが最後の正規の活躍か?
木村と共に第一次UWFから全日本プロレスへ。だが、ファイトに輝きを取り戻すことはできず、人員過剰期に整理解雇される。
旧国際のメンバーを集めてスポンサーを見つけてパイオニア戦志を旗揚げ、インディーズ乱立の一角を担った。どうしてもプロレスが好きで好きで辞められないプロレス馬鹿として一部のファンの支持もあったが、興業として安定継続できるようにはならず崩壊。さらに、オリエンタルプロレスを経て屋台プロレスへ。鶴見の厚意で引退試合が用意されたが出場せず。ゲイビデオに出演するなどしていたが、いよいよ困ってひったくり事件で新聞記事になったのが2003年。2009年死去。
絶対王者藤波に勝った唯一の男で、最後まで本人はその栄光にすがっていたと聞くが、それならアスリートとして最前線で働ける肉体鍛錬だけは続けて欲しかったものだ。インディ団体の草分け的な存在でもあるので、プロレス史の一行には記載されているべき存在と思い敢えて取り上げた。