なつかしの昭和プロレス:ジャンボ鶴田

bqsfgame2013-02-01

1951年生れ。実は天龍より年下。
ミュンヘンオリンピックグレコローマン代表の経歴で全日本入り。ゴールデンルーキー扱いで、テキサスのファンク道場へ修業に出た。現地でデビューし、当時NWA王者だったドリー・ファンク・ジュニアに挑戦するなど破格の待遇を受けた。
帰国デビュー戦で、モロウスキー(ドクターデス)を撃破。同じ週に馬場のパートナーとしてインタータッグ戦を戦う。時期尚早と見られていたがテリー・ファンクから一本取って見せ実力で批判を跳ね返した。
UN王者になり、順調に世界王座挑戦者に成長、何度もタイトル奪取直前まで善戦しながら王者有利のルールに阻まれ続けた。王座奪取が実現しない内に天龍が台頭してきたため、確実と見られたポスト馬場の地位が揺らぎ始めた。「ここで取れなければ後継は天龍」と馬場が言明した1984年2月、AWA本部がチャンピオン有利な特別ルールを解除した試合でニック・ボックウィンクルを撃破してついに世界王者に。続くシリーズでも3人のAWAからの挑戦者を退け、ついに日本人として初めての世界王者としての海外遠征に出た。この遠征ではAWAの陰謀と当時揶揄された12連戦が組まれ、最後のリック・マーテル戦で敗れて王座転落した。
当時のAWAは、バーン・ガニア院政の弊害で選手の高齢化、人気の低下が著しく、試合巧者で長持ちだが観客動員力に欠けるニックに見切りを付けようとしていた。しかし、試合巧者のニックを倒せる挑戦者の人材に欠け、そこで日本の実力者鶴田を王座交代の中間走者に選んだのだろう。そして、今度はその鶴田からアメリカ人王者に戻す時に、世代交代と人気を考えて、リック・マーテルを用意し、これを過密防衛スケジュールの最終戦に本命挑戦者として用意したのであろうことは当時は誰の目にも自明だった。新日本のIWGPに参戦予定だったマーテルは、これをキャンセルまでして挑戦に準備しており、当日の会場にはAWAの重要人物がリングサイドに並んでおり、この王者交代が予定調和として仕組まれたものであることが見え見えの会場設定だった。
しかし、この努力も空しくマーテル(1年半)でもAWAの人気は回復せず、AWAは次の実力派チャンピオンとしてハンセン(半年)まで試すのだが、事態は改善できず王座はニックの元に戻っていった。程なくしてAWAは崩壊してしまった。
そういった事情のある王座獲得ではあったにせよ、全盛時のジャンボ鶴田が世界に通じる実力者であったことは間違いない。馬場のプロモーターとしての実力もあって、同世代のレスラーの中でも鶴田が首一つ抜けた実績を挙げたことは間違いないだろう。野田前首相が鶴田最強説の一人だったそうだが、筆者も同感である。平成に入ると肝炎で第1線から下がるようになり、最後は肝臓移植手術が成功せずに亡くなった。
全盛時でもファンからは「本気で戦っていない」と批判されることが多く、世界戦での善戦マンぶりと相俟って本気なら世界一のはずだが本気になり切れない坊ちゃんレスラーと言う評価だったように思う。
しかし、後に長州とのシングル、天龍とのシングルなどで、その潜在能力が同世代のレスラーより上であることを証明した。彼の病気による早期の第一線撤退は昭和プロレスの人気が急速に衰えたことの一つの要因だったかも知れない。