なつかしの昭和プロレス:天龍源一郎

bqsfgame2013-01-31

1950年生れ。
大相撲からの転身組の一人だが、当時、大相撲も熱心に見ていたので天龍の廃業は印象に残っている。天龍は非常に珍しい勝ち越して辞めた力士の一人。原因はいわゆる二所関騒動。八代二所関(佐賀の花)死去後、本命と見られた押尾川大麒麟)を未亡人が拒否、最終的に押尾川部屋が独立することとなった。天龍は青葉城と共に押尾川移籍を希望したが果たせず、結局、勝ち越して廃業、プロレスに転向した。力士としては軽量で力強さに欠けたので、見切りを付けたのかと思わないでもなかった。
プロレス転向後は全日本入門、アメリカ修業に出た。日本でのデビュー戦では相撲の突っ張りそのままの天龍チョップなどを披露。ただ、力感不足は相変わらずだった。
天龍がレスラーとしてブレークしたのは、インタータッグ挑戦予定だったスレーターが負傷欠場し、ビル・ロビンソンが代役に天龍を指名した時から。この試合で、馬場、鶴田を相手に奮戦してブレーク。ちょうど戸口が離脱し、空席となった全日本第3の男を争う立場に。この年のチャンピオンカーニバルでは、後輩の石川、国際から転入してきた井上らと激しいファイトを展開し実績を上げて第3の男と目されるに至った。
その後、NWA王者フレアーにも挑戦、このフレアー挑戦を見て浪人中だった阿修羅原が「年齢、プロレスキャリアの近い天龍選手がNWAに挑戦するのは納得がいかない」と挑戦する形で全日本に参戦してきた。此処から二人はライヴァル的存在になるが、最強タッグでは馬場が指名して若手有望株チームを編成、成績は揮わず最終戦でラシク、クラップのロートル・クロー攻撃チームに勝つのがやっとだった。しかし、これが後の龍原砲へと発展していった。
個人タイトルのUN王座を取ったあたりから鶴龍の2枚看板時代へと移行していき、ジャパンプロレス勢の参入に対しては先頭に立って戦った。天龍同盟を結成、鶴田との対決も実現するようになりポスト馬場を争ったが、AWA世界王座を奪取して海外防衛戦ツアーを実現した鶴田に後れを取って果たせず。結局、メガネスーパーの業界参入時のエースとして全日本を離脱した。
大相撲時代の線の細さからは想像できないほどプロレス界では最終的には成功し、同世代の中でも最後まで現役の伝説として活躍。馬場と猪木の両方をフォールした最初の日本人になったのを初め、幾多の記録を作ってきた。
個人的には転向直後の実力不足なのに優遇され、それでいてニヒルな態度で印象が悪かった時代のイメージが強く、あまり好きではない昭和レスラーの一人。しかし、その実績が比類なきものであるのは間違いない。