1941年生まれには、もう一人ラッシャー木村がいる。
大相撲の宮城野部屋出身。幕下上位まで出世したが、もともとプロレスラーが夢で、そのための体作りが目的だったという。関取になると辞められなくなるので脱走したが、関取目前の期待株とあっては親方は当然のことながら慰留したことだろう。
日本プロレス末期に入団して豊登の付き人に。豊登の縁で東京プロレス旗揚げへ。ご存知の通り東京プロレスは早々に解散。そして、国際プロレスへと移って行った。
国際プロレスではアメリカ遠征をさせてもらい、現地では日本人悪役の元祖的存在であるシャチ横内と活躍したと言うが、この時代の話しになると記録も少なくあまり良く判らない。
帰国したが、当時の国際のエースは杉山から小林へと移って行き、木村の出番はなかなか回って来なかった。そのため、日本初の金網デスマッチをドクターデスと戦い、以後、金網の鬼として知られるようになる。ストロング小林時代の後半には挑戦者として戦ったこともあったが、エース奪取には至らなかった。後に夢の三団体オールスター戦で、この顔合わせは再び実現して木村が勝利している。
ストロング小林の離脱でチャンスが回ってきたが、欧州帰りで年下のマイティ井上に先を越されてしまう。ここらへんのチャンスを掴めない星の巡りがラッシャー木村らしいと言えばそうだろうか。
井上がマッドドッグバションに敗れた後で木村がベルトを奪回し、ついに遅咲きながらエースの座に立つことになった。その後は、上田、スミルノフ、バーン・ガニアにベルトを一時的に奪われるものの75年から81年まで実に6年間もエースに君臨し続けた。
丈夫で長持ちだけが取り得などと揶揄されたが、実はサンボを身につけていて関節技に強かったり、風車吊りや裏四の字やグラウンド卍固めなどの新必殺技を開発して披露したり、世評よりずっといろいろなことができたレスラーだと思う。
国際プロレスが崩壊して新日本プロレスへ挑戦。しかし、後輩のマイティ井上は全日本プロレスへ、期待の新星、阿修羅原も天龍への挑戦を訴えて全日本へ。
結局、新日本マットに上がったのは、木村、浜口、寺西の三人だけになってしまった。そして、田園コロシアムでの伝説の「こんばんは、ラッシャー木村です」に繋がる。
新日本全盛時代に敵役としてマットに上がったので、新日本ファンからは良く言われないのは止むを得ない。しかし、「こんばんは」は木村の人柄の表れであり、また猪木戦での攻められて耐え続けるファイト振りも古館節の「テトラポットの美学」は奇麗事に過ぎるにしても丈夫が売りの木村らしかったとも言える。
三対一のハンディキャップマッチは、いかにも猪木の見せ場作りだが、そこで負けなかったのは最後の一線で踏みとどまった印象か。
アニマル浜口が長州の元に走った時の落とし前決戦では、木村の張り手が浜口に炸裂すると、その凄まじい音に、国際の分裂に関心のない新日本のファンさえも静まり返って固唾を飲んだ。この試合は、「勝ち方に問題はあったが木村の新日本でのベストバウト」と評価された。新日本末期に剛龍馬と海外遠征、エキゾチックエイドリアン、ティモシーフラワーズ3世組からアメリカスタッグ王座を奪った。日本に持ち帰って防衛戦をやりたいとの希望を持っていたが、ゲレロ兄弟に敗れて果たせなかった。
浜口離脱後は、外人サイドに入ったり苦心していたがフェイドアウト気味、結局、第一次UWF旗揚げに加わって新日本を離脱する。しかし、前田、藤原、佐山らのシュートなレスリングがUWFの主流になると、そこにも木村の居場所はなくなってしまった。
1984年の全日本の最強タッグリーグ戦に馬場のシークレットパートナーとして参戦。此処ではブロディ、ハンセン組相手に、一瞬ながら木村がラッシュして試合を支配してみせ観客の大歓声を呼んだ。これに怒ったブロディ、ハンセンがラッシュしてマットに沈んだが、木村がエース級レスラーであることを改めて世に示した試合だと思う。
その後は馬場と仲間割れして国際血盟軍を結成。メンバーが人員整理で解雇されると、再び馬場と結託して義兄弟タッグを結成。さらに、ファミリー軍団として、永原らの悪役商会と前座の名物ファイトを展開した。この時期になるとマイクパフォーマンスが売りになり、かつての金網の鬼のイメージからは遠く離れていった。
馬場の死去後はノアに加わり、還暦までファイトを続けた。
しかし、体調不良から欠場するようになり、最後はファンや仲間のレスラーからも隠れるようにして闘病生活を送っていた。
2010年に死去。弔辞は、国際から新日本まで共に戦ったアニマル浜口が読み、18番の「気合だ!」を連呼した。
筆者は国際プロレス末期のファンだったが、ラッシャー木村に華が在ったらとの声はその通りだと思った。しかし、木村には木村の個性があり、世評で言われるほど悪くはなかったと思う。人柄も良く、非常に努力もしていたと思う。ただ、マットの上で成功するには、人柄や努力だけではどうにもならない部分があると言うのが残念ながら真実なのだと思う。
国際マットでは早くからエースの座を日本人同士で争っていたことは、もっと話題にされ評価されるべきだと思う。小林対木村、木村対井上、最晩年には木村対浜口もルーテーズ杯リーグ戦で実現した。
そうした魅力あるカードが、それほど話題にならなかった国際の営業力に責任があると思うのだが、そうした恵まれない条件下で良く奮戦していたと思う。別に同情して欲しい訳ではなく、もっとリスペクトされて良いレスラーだと思うのだが、いかがだろうか?
画像は風車吊り。リバースフルネルソンとベアハッグを合わせような関節技と言うか力づくの締め技と言うか。入り方が見栄えがしなかったですね。