なつかしの昭和プロレス:マサ斉藤

bqsfgame2012-02-22

1942年の三人の最後の一人がマサ斉藤
杉山、草津日本プロレス末期の三羽烏と言われたが、いずれも早々に日本プロレスを離脱している。期待の若手が続々と出て行く辺りに末期の日本プロレスの問題の大きさを感じる。
斉藤は他の二人と違って、豊登、猪木と共に東京プロレスへ。すぐに崩壊することになるが、その後は日本プロレスにも国際プロレスにも行かずに渡米した。
斉藤はキャリアのほとんどをアメリカマット中心で過ごし、末期AWAの世界チャンピオンにもなるなどアメリカンレスラーとしての成功が日本のキャリアよりも大きいレスラーである。
日本マットには狼軍団の一員として新日本に上陸。組合せのバランスから次代のエースと目される藤波と対決した。この流れからスティーブ・カーン、スタンリー・レーンなどが新日本マットに登場する時にはマサ斎藤が藤波に送り込んだ刺客などと呼ばれた。
国際マットにも上田とのタッグで登場したが、実力的に見ると不思議なことだが戴冠しなかった。
マサ斎藤が日本のプロレスファンに強い印象を残したのは、藤波に反旗を翻した長州が渡米した時にマサ斉藤を頼り、長州のメンター格で新日本に登場した時ではないだろうか。長州がリキラリーアットで藤波を倒してWWFインターヘビーの王座を奪取した時に、リングに上がってきた斉藤と抱き合ったシーンは個人的には印象深い。
斉藤、長州のタッグチームは、直前に来日して猛威を奮ったアドニス、オートン組の殺人連携技を取り込んで新日本マットで本隊と対決して大いに活躍した。
長州力らが全日本に参戦した時には、斉藤は馬場と反りが会わなかったのか一度しか全日本マットには登場しなかった。
その後、ケン・パテラと警官隊の乱闘に巻き込まれて監獄生活を送ることになり、この時に開発したと言うギミックで監獄固めを使うようになった。
その後、再び新日本マットに登場、アントニオ猪木との巌流島の対決に挑んだ。この時の斉藤は既に45歳だったが、獄中で肉体改造をしたとも言われ、狼軍団当時のぽっちゃりした印象から、四角い重戦車のような肉体に変わっていた。
長州の「オレたちの時代」発言に端を発する世代闘争では猪木、坂口、藤原らと共にナウリーダー側で戦った。しかし、斉藤の気持ちとしては若手と戦うより猪木と戦いたかったように思われた。
1990年にズビスコを破ってAWAの最後から二番目のチャンピオンとして戴冠。多分に資金難のAWAがジャパンマネーを意識したように思うのだが真相はわからない。
1999年に引退。その後は体調が思わしくないらしく復帰したりはしていない。
マサ斉藤の代名詞といえば、「マサ斉藤特有の捻りを加えたバックドロップ」に尽きるだろうか。どちらかと言えば背が低い斎藤がバックドロップの威力を増すために工夫した姿で、ルーテーズに代表される正統派バックドロップとは一線を画す独特のテイストの技だった。実際にやってみると判るのだが、相手の真後ろを取るよりも斜め後ろくらいを取って投げるのが一番投げやすく、その意味ではサイクロンスープレックスとか別の名前を付けてしまった方が良かったかも知れない。