なつかしの昭和プロレス:藤原喜明

bqsfgame2012-12-26

藤原は1949年生れ。
昭和プロレス時代に風貌から感じていたより若い。
ゴッチの優等生の一人で関節技には定評があり身内では実力者として恐れられていた。しかし、何と言っても華がなかったことから、ずっと前座で燻っていた。
藤原がTV中継でファンに注目されたのは、長州と藤波の名勝負数え歌の札幌決戦の時だった。入場してくる長州を鉄パイプで襲って救急車送りにして試合を壊した。この件に限らず札幌では会場が荒れることが多かった。
この騒動の伏線として前座試合で維新軍に藤原が同様に場外凶器乱闘で徹底的に攻撃されたことがあり、その報復だと言われたが定かではない。いずれにせよ当時の維新軍と本体との抗争は、ストロングスタイルとは異次元のものとなっており、これが前田明の離脱の伏線となったとも言われている。
長州復帰後にリベンジマッチとして長州対藤原が組まれた。ノーTVだったかと思うがプロレス週刊誌では大きく扱われ、長州が珍しく凶器攻撃に走り中継ケーブルで藤原の首を締め上げてからパイルドライバーを見舞って藤原を仕留めた。
その後、前田が上述の伏線もあってUWFへ離脱。前田がWWFマットでコブラツイストでもう一つのWWFインターナショナルの王座に就くと、「コブラツイストでチャンピオンとは笑わせるな!」と発言してUWF会場へ。当初は前田の驕りを諌めるために行ったかと思われたが、そのまま高田と共にUWFマットへと参戦する。
第一次UWFが行き詰って新日本との対抗戦で逆上陸した時には、猪木はUWF内部でのリーグ戦を開催した上で優勝者と対戦すると言明。これを受けて実施した新日本マットでのUWFリーグ戦で藤原が優勝、猪木とのシングル決戦となった。このシングル決戦が藤原のキャリアピークだったように思う。
試合は藤原が関節技で猪木に対して優勢に立つ中、焦った猪木が藤原のボディを蹴ろうとした所、足が十分に上がらずに急所蹴りとなって藤原が悶絶。セコンドの前田が「猪木の反則負けだ!」とクレームして騒然とした。結局、インターバルを取った上で試合再開となったが、この時の前田の「アントニオ猪木なら何をやってもいいのか?」は、プロレスの本質を付いた名言だと思う。再開後は、劣勢の試合で猪木が往往にしてみせる死に物狂いの反則まがいの攻撃で、最後はチョークスリーパーで藤原を締め落として決着。だが、途中の反則裁定の問題もあってUWF側は納得せず、後のエリミネーションマッチへと発展していく。
日本人団体抗争は、やがて世代闘争へと移っていき、その中では猪木、坂口、マサ斉藤らと共にナウリーダー側で戦った。ただ、実際の世代は藤原はニューリーダー側に近く、マッチメイクのバランス上の都合だったか。
関節技の名手としては同じUWFの木戸がいたが、いろいろな点で対照的だった。木戸がプロレス的なムーブメントもこなすのに、藤原は格闘技路線を強くアピールしてロープワークを拒否した。また、木戸が様々な動きの中で臨機応変な技を繰り出すのに対して、藤原は「今日はコレ」と決めた技を執拗に狙うスタイルを取り、それによってその技を必殺技として説得力を持たせていた。
その後も格闘技路線の強い団体系譜を渡り歩いたが、キャリアピークは上記のUWFと新日本の対抗戦あたりだったろう。