なつかしの昭和プロレス:木村健吾

bqsfgame2013-02-07

1953年生れは豊作だが、最後の一人。
見掛けによらず大相撲宮城野部屋出身。日本プロレス時代の入門で、坂口の付け人で、坂口と共に後から新日本へ合流した。
藤波と共にジュニアへヴィー戦線を確立した一人で、その後も藤波をライヴァルとして意識し続けた。しかし、最初にジュニアへヴィー時代にチャボ・ゲレロにタイトルを奪われたのを初め、常に藤波の後塵を拝し続けた。
長州、タイガーマスクの台頭で起こったプロレスブームの時にはジョバー的な位置に安定してしまっており、初来日の大物外人に開幕戦でやられるのが定位置だった。ボックの初戦で「どんな体勢からでも両手が掛れば投げてみせる」の記者会見予告通りに有り得ない体勢から投げられて負傷したのは木村だった。アドニス&オートンのマンハッタン殺人タッグに捕まって日本初公開のハイジャックラリーアートで病院送りになったのも木村だった。
それでも大量離脱でコマ不足になった新日本を支えた一人であり、この時期に藤波とのタッグで売り出そうと言うフロントの意向に反して藤波挑戦を実現したのは記憶に残る一場面。凶器入りレッグラリーアートで勝ち名乗りを受けたが、凶器が発覚して無効試合に。
UWFの上陸ではUWF勢に蹴られまくって逃げ腰のファイトを見せて失笑を買ったが、それでも前田・木戸組からタッグ王座を奪還して一矢を報いた。
IWGPタッグリーグ戦で藤波と組んで猪木、坂口に勝利した辺りが最後の活躍か。初代タッグ王者となるも最初の防衛線でクリス・アダムス、ジャッカル組にKOされ、ほとんど負けていたのはお粗末だった。
その後、再び藤波と対決するも敗北。以後は平成維震軍で後輩の越中の下に入るようになりフェードアウトしていった。
新日本の若手時代には藤波、長州とライヴァルと目される時代もあったが実力不足は終始否めなかったように思う。層の厚い世代にあっては頑張った方とは思うが。