間が空いてしまったが、1942年の続き。
坂口のところでも書いたが、レスラーとしての成功と、人物としての評価やビジネスマンとしての能力はあまり関係がない。
グレート草津は、ラガーマン出身。日本プロレス末期に入団したが、当時の日本プロレスの体制に嫌気が差して離脱、国際プロレスへと合流している。
当時のプロレスラーは、「怪物」的なイメージの選手が多かった中にあってスマートなアスリートタイプだった草津。これに目を付けたのがTBS。
かくてTBSの国際プロレス初放送で、当時全盛時のルー・テーズに挑戦することになった。TV局主導のエース選定と言うのは、プロレス史の中では珍しいことではない。TVで数字が出せるエースがいないとプロレス団体の経営は難しくなるからである。
しかし、このTBSの目論見はテーズの必殺技バックドロップの前に藻屑と消えた。世に言う草津失神事件である。本当に失神したのかどうかは議論のあるところだが、いずれにせよ全米のトップにグリーンボーイをぶつけて初挑戦初戴冠を目論んだTV局の論理は敗れ去った。ここらへんがシナリオのあるスポーツであるプロレスでもシナリオ通りに事が運ばないことがあるという伏魔殿。
国際プロレスは早くから団体のエースを日本人同士で争う伝統があったので、草津に実力と気概があれば小林時代でも井上時代でも木村時代でもチャンスはあったのだと思う。しかし、そうはならなかった所に、草津のレスラーとしての器の限界があったように思う。
中堅レスラーとしてタッグ王座で燻るようになってしまったのは、同年生まれの坂口と同じようなコース。
しかし、国際崩壊後に営業マンとして会社員生活を送るようになってから成績優秀で取締役まで上り詰めたと言うから人物としてビジネスマンとしてしっかりした人だったのだろう。そういう人がリングで大成できるわけでないと言うのは坂口と同様だった。
画像はラッシャー木村と組んでのタッグ王座戴冠の時。
そう言えば風貌も坂口と似ている。