なつかしの昭和プロレス:マイティ井上

bqsfgame2013-02-16

原稿と日記を付き合わせてみたらアップロード忘れがあるのに気付いた。
1949年生まれ。
意外だが高校時代は柔道が基礎。ストロング小林、ヤス藤井らと同時期に国際プロレス入り。タイミングが良く期待されて海外修行に出され、ヨーロッパ仕込みのレスリング技術を身に付けて帰国。
アンコ体型ながら動きが良く、ドロップキックや空中で前転して体重を見舞うサマーソルトドロップは、井上の代名詞的な技だった。
タイミングに恵まれたと言えば帰国時に海外流出していたIWA王座をビリー・グラハムから奪還してラッシャー木村より先にIWA王座に就いた。以後、長きに渡って井上は木村のIWA王座に再三に渡って挑戦するのだが、その原点は自分が先にIWA王座に就いたと言うこの経歴による。
シングル王座転落後はタッグの名プレイヤーとしてIWAタッグ王座の常連に。特にアニマル浜口との和製ハイフライヤーズは、テンポの良さ、空中殺法、タッチワークなど日本でも屈指の名タッグチームだった。このチームでは、極道コンビを破ってアジアタッグを獲得したこともある。
国際プロレス崩壊後は、吉原社長や木村とは行動を共にせず、独自に若手を連れて馬場の全日本プロレスに合流した。合流直後に戸口離脱があり、全日本第3の男を争うタイミングがあり、天龍、石川と第3の男を争った。この時のチャンピオンカーニバルでの天龍戦は大熱戦となったが場外戦での自爆から敗北している。いずれにせよ馬場のプッシュは天龍だったので井上が第3の男になる可能性はなかったと思うが、当時の時点での実力はかなり拮抗していた。
その後は体重を絞ってジュニアヘビー級戦線に。大仁田離脱後のジュニア戦線の主軸に躍り出た。さらに、旧国際仲間の原も全日本に参戦してくるとタッグでアジアタッグ王座を獲得したりして、中堅レスラーとして息の長い活躍を見せた。
内臓疾患で引退する時には馬場未亡人の受けが悪く残留が危ぶまれたが、リングでレフェリーになりますと発表してしまえばそうなると助言されて無事にレフェリーに転向。その後はノアへレフェリーとして移籍。
ヨーロッパ仕込みで、空中殺法ができ、それでいて気性が激しくラフファイトもガンガンやると言う多くの引出しを持つレスラーだった。体格がもう一回り大きければ国際のエース争いで、もっと実績を残せたかも知れない。しかし、素質の割には相当に頑張ったレスラーの一人と言って良いと思う。