原稿と日記を付き合わせてみたらアップロード忘れがあるのに気付いた。
1948年生まれ。
在日韓国人2世で大木の誘いで日本プロレス入り。高校時代は柔道をやっていたと言う。
日本プロレス崩壊前年の1972年に海外武者修行に出て、海外活動中に崩壊を迎えた。アメリカマットではキム・ドクの名前で活躍、AWA王座にも挑戦したと言う。
日本帰国時には大木のパートナーと言う形で全日本マットに上がることとなった。そういう意味では日本プロレスに最後までいて全日本に救済合併されたメンバーに準じた位置付けだったか。これまでも書いてきたように、この救済合併メンバーは軒並み馬場に冷遇されたのだが、戸口は大木とのタッグでインタータッグ王座を獲得し、その実力を認められて鶴田のライヴァルとして台頭、正式に全日本入りして全日本第3の男と呼ばれるようになる。
しかし、1981年、表向きはIWGP参戦のために新日本マットへ。裏事情としては第3の男と言われつつも、それほど全日本での待遇は良くなかったことがあったとも言われる。戸口のIWGP参加は、猪木サイドからすればIWGPが新日本だけのローカルイベントではないことを実証する意味で大きかった。このため、戸口参戦直後には、IWGPアジア代表予選と称して猪木とシングル対決が組まれた。だが、この戦いに卍固めで敗れた後は中途半端なポジションしか与えられず、カーンとのタッグで一時成功するも結局はアメリカマットを中心にするカミカゼレスラーに。
パートナーのカーンがジャパンプロとして全日本マットに上がるようになると、戸口は過去の経緯から合流できず、新日本正規軍に合流することになった。しかし、新日本は人材難だったにも関わらず戸口を活用することをせず、結局はカミカゼレスラーからインディーズ渡り歩きと言うコースに入ってしまう。
全日本第3の男の実力からすれば信じられないような末路で、新日本のIWGPの宣伝に利用された不幸な人材の代表格である。
一方、彼の離脱が天龍の台頭を生んだので、昭和プロレス全体にとっては決して悪い流れとは言えないのかも知れない。
数年前にプロレス好きの友人と、カーンと戸口のどちらが格上かと言う議論になったことがあり、筆者以外は戸口推しだった。個人的には今もカーン押しで理由は、アメリカマットでの成功度合いが、MSG定期戦でのWWF王座挑戦とアンドレの足折りで全然上だからである。戸口もサンタナのインターコンチ王座に挑戦したりしているが、アメリカではずっと格下だろう。