なつかしの昭和プロレス:阿修羅原

bqsfgame2012-08-27

1947年、浜口と同じ年齢に実は原がいます。
これも意外ですが、原の寺西とのデビュー戦は1978年で、当時既に31才と超遅咲きだったからです。
なので、期待の若手と言われていましたが、実は寺西や浜口と同世代で、井上や鶴見より年上だったのです。遅かった理由としては、そもそもラガーマンとして大成していたからです。
いずれにせよ国際プロレス期待の大型新人であったことは疑いなく、国際は彼のためにWWU世界ジュニアヘビー級のベルトを用意したと言って良いでしょう。
新人をいきなり初代王者にするのは説得力がないので、ミレ・ツルノを王座決定戦で初代王者にしておいて原が挑戦して王座奪取と言う形を取りました。ミレ・ツルノは新日本で初代タイガーにも後に挑戦したので一定の実力の持ち主でした。
原は、ダイナマイト・キッド、ローラーボール・マーク・ロコ(ブラックタイガー)などを相手に防衛戦を行いました。顔触れを見ると、結構、錚々たる陣容なのに驚きます。
国際崩壊直前に凱旋帰国、当時は新兵器だった雪崩式ブレーンバスターを引っさげて初戦のスティーブ・オルソノフスキー戦で公開して見せました。当時のプロレスでは雪崩式は新規開拓分野だったので、結構、衝撃的な技でした。
国際ファン、浜口ファンの目から見ると、原が新日本への殴りこみに参加してくれなかったのは残念でなりません。彼がいたら、様相は随分と違っていたと思います。
しかし、原は天竜を意識した発言をして全日本マットへ。
やがてライヴァルで盟友と言う流れで龍原砲を形成しました。
ジャパンプロレスの全日本登場後、一時期は行方不明になり、復帰してからはヒットマンラリーアートを武器に長州挑戦をアピールしました。
しかし、長州側はまともに取り合わず、結局は元のポジションに戻りました。
当時の番組で馬場社長に言いたいことをと聞かれて、給料を上げてくださいと真面目に言っていたのが記憶にあります。金銭的なトラブルがあったようで、天竜と共にSWSへ。結局、最後まで天竜と同じ団体を渡り歩く形になり、94年に引退しました。
国際崩壊で運命が変わってしまったレスラーは少なくありませんが、タイミング的にも存続していたら約束されていたポジションからしても彼が一番大きなダメージを受けたと思います。その意味では不運だったと思います。