なつかしの昭和プロレス:NWA王者レイス

bqsfgame2011-05-09

筆者の世代ではNWA王者と言えば、なんと言ってもハーリー・レイスである。少し若い人たちは、きっとリック・フレアーと言うと思うので、ここらへんで年齢が判ってしまう‥(^_^;
レイスの出発点は、アマリロのファンクス一家。最初に来日したのは、1968年と言うから筆者も記憶がない。当時は分裂前の日本プロレス。当時NWAチャンピオンだったドリー・ファンク・ジュニアのセコンドに付いていたと言うからファンクス一家の舎弟だったようだ。
しかし、この頃にAWA圏に入って「プリティーボーイ」ラリー・ヘニングとチームを組んで「ハンサム」ハーリー・レイスとしてAWAタッグ王者になっている。
1972年9月に、後にNWA王座への登竜門と呼ばれるようになるミズーリヘビー級王座を奪取。以後、この王座には7度に渡って戴冠することになり、ミズーリを本拠地とするレイスのプライベートタイトルに近い扱いだった。
1973年5月に、師匠であるドリーの長期政権に引導を渡してNWA初戴冠。4ヵ月後にジャック・ブリスコに破れる。
二度目の戴冠は77年の2月に、今度はテリー・ファンクを倒して戴冠する。そういう意味ではファンクスの不倶戴天の敵となった。
レイス自身が長期王者になって行ったが、79年8月には、いわゆるダスティ・ローデスアメリカンドリームの「七日天下」に一時的にベルトを明け渡して三度目の王座に移る。
次は同じ年の10月にジャイアント馬場に奪われるが、これも「七日天下」で奪回に成功し四度目の王座に移った。
翌年の9月にもジャイアント馬場に「五日天下」を許す。この時期を振り返ると、馬場とレイスが宿命のライバルだと言う意見には肯けるものがある。
81年の4月には、今度はトミー・リッチの「五日天下」があった。この時期になるとレイスは下り坂といわれ、その長期政権に誰が引導を渡すのか囁かれ始める。
そして、この年の6月にレイスのライバルの一人であるローデスが王座を奪取。レイスはリターンマッチに失敗してしまう。人気者ではあるが王者肌ではなく、地元を離れて長期遠征することに抵抗のあるローデスは、ワンポイントリリーフと言う声が強く、ドリーかフレアーのいずれかが次の安定王者候補と言われた。そして、予想通りに3ヵ月後にフレアーが初めての王座を奪取する。
しかし、レイスはまだフェイドアウトせず、83年にセントルイスでフレアーを破って7度目の戴冠を果たす。5ヶ月あまり王者を守って見せ、いまだ健在なところをアピールしたが、最後はグリーンズボロでフレアーの軍門に下った。
最後の戴冠はNWAのニュージーランド遠征で再びフレアーを破った84年3月。この王座奪取は判定に疑義が唱えられグレーになっていたが、今でも公式記録に残っているので認められたのだろう。
しかし、遠征折り返しのシンガポールで敗北し三日天下に終っている。結局、このリターンマッチが成功したので、先のニュージーランド戦の結果についての提訴は取り下げられたのだろうか?
1986年からはWWFへ移籍するが、そこから先は筆者の記憶に残る「NWA王者、ハーリー・レイス」とは別の話しになる。