GJ最新号の「フリードリヒ最大の危機」を是非やりましょうと言う話しを千葉会でできました。
イラクの対戦相手のaoさんから、「プロイセンとドイツの間がどうも繋がらないんですよね」と言われて、なるほどと思いました。7年戦争のゲームは有名です。WW1のカイザーズウォーのゲームもあります。でも、その間を繋ぐゲームは、実はあるのですがプロイセンが主導的な役割を果たすことは少ないのでわかりにくいのです。
その前に、そもそもプロイセンなる国はいつ登場したのでしょう?
公的な建国は、ブランデブルグ選帝侯であった後のフリードリヒ1世が、北方戦争で巧妙に立ち回ってプロイセン地域を領土として確保し戴冠した1701年になります。ですから、18世紀と非常に遅い建国であり、中世史には登場してきません。
そもそも選帝侯だったので、神聖ローマ皇帝の部下だったはずですが、折からのスペイン継承戦争で力を借りたかった皇帝レオポルト1世は、この国外領土の王位を認めました。
フリードリヒ1世の後継者が、ソルジャーキングと呼ばれ質実剛健で軍事強国化の路線を確立したヴィルヘルム1世です。彼は大北方戦争を契機に領土を拡大しました。
そして、本命であるフリードリヒ2世が登場し、オーストリア継承戦争と7年戦争を戦い抜きプロイセンの最盛期を築き上げました。この繁栄は続くヴィルヘルム2世の時代まで継続しました。
その後のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の時代は危機の時代です。ナポレオンが台頭し、プロイセンに限らず旧秩序の王国、帝国は軒並み蹂躙されました。しかし、最終的にはプロイセンの将軍ブリュッヒャーは、イギリスのウェリントン将軍と共にナポレオンをワーテルローに破りました。
フランス人による支配の思わぬ副作用として、ドイツ民族の自覚が芽生え広がりました。ウィーン会議はプロイセン領土を狭めましたが、ドイツ連邦に加入することでドイツとして新しい地位を築く第一歩を踏み出しました。
平和主義者だったフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、議会を認め、さらに欽定ではありますが憲法を定めました。
その後のヴィルヘルム1世が、プロイセン国王の身にあるまま、統一ドイツの皇帝となったことで、プロイセンの歴史はドイツの歴史に接続されます。プロイセンは滅びた訳ではなくドイツの中核として発展的に発散してしまい、強いて言えばWW1で敗北してカイゼルが退位した時が王国としての公的な終焉と言うことになります。
余談ですが、カイゼルはこの時にドイツ皇帝を退位してもプロイセン国王の地位には残ろうと思っていたそうです。その思惑が実現していたらプロイセンが復活していたわけですが、そのようなことは許されませんでした。
ですから、7年戦争とWW1の間は、スペイン継承戦争とナポレオン戦争になりますので、それぞれにゲームはあります。ただ、前者はアングロ連合対フランス王国、後者は皇帝ナポレオンの一代記の色彩が強く、プロイセンは印象の薄い脇役であることは否定できません。特にスペイン継承戦争の全体を網羅する「ノーピースウィズアウトスペイン」は何回かプレイしましたが、プロイセンの存在感はゼロに近かったです‥(^_^;