戦闘機:第一部、戦略を読む(引用)

ハヤカワ文庫、レン・デイトンの「戦闘機-英独航空決戦」です。

p46

こんなことからイギリス本土攻略作戦計画がようやくOKWで芽を吹いたのは、一九四〇年七月十二日のことであった。それもその作戦計画の起案者である陸軍大将ヨ―ドルでさえ、「広大ナル作戦正面ニオケル渡河戦ノ形ヲトルモノトス」などといとも軽く片付ける始末だった。

p52

この日(一九四〇年七月十九日)クロルオペラハウスの式典で新たに誕生した空軍元帥は三人であった。まず一人は小柄で剽悍なエアハルト・ミルヒ。航空省で筆頭の地位にあり、また空軍でも監察長官をつとめている。あとの二人は、アルベルト・ケッセルリンクフーゴー・シュペルレで、それぞれ二航艦と三航艦の長官であるが、この二人はどちらも二階級特進であった。これはどうもミルヒの権力を弱めようとしてのゲーリングの策謀だったのではあるまいか。

p62

ドイツにはフーゴー・ユンカース博士の航空機製造会社があった。時世の移り変わりに順応するのがきわめてすばやい人物で、休戦協定が調印された日の午前に生産を軍用機か商用機に転換することを決めたのである。

(中略)

そうしたユンカース博士のとり立てを受けた者たちの中に、少し出目の男がいた。名をエアハルト・ミルヒといい、‥

f:id:bqsfgame:20090105160215j:plain

p72

その後のこのドイツ空軍の性格を決定づけてしまうような現象が、早くも進行していたのである。

まずゲーリングだが、この人物は技術的知識も持ち合わせてはいなかったし、この新生空軍が進むべき方向を明確にしてそれを支持する能力もなかった。ヒトラーはといえば、出来る限りの短期間中に、能う限りの最大規模の軍用機数をとりそろえることのみを、声をからしてただ叱咤していただけのことだった。

(中略)

もしもドイツ空軍が四発の遠距離用爆撃機を所有していたとしたら、バトルオブブリテンの様相はそれこそ全く別のものとなっていたにちがいない。だが、とりそろえる機数の多いことのみが優先されたし、四発の大型爆撃機の開発と量産につきものの複雑な諸問題は、他の兵力整備計画をいたずらに遅延させるだけだと考えられたのである。

p84

こうした中にあってひとりユンカースJu87急降下爆撃機のみは、期待をはるかに上まわる好成績を示した。この機に対する爆弾搭載量が少ないという唯一の不満も、実戦使用でのターンアラウンド時間の短さがそれをつぐなって余りがあった。一日に実に六回の出撃を実施したようなシュツーカ隊も一、二にはとどまらなかった。