×バイエルン選帝侯 マクシミリアン2世

マクシミリアンはフェリペ5世の叔父であり、そのスペイン継承を支持して参戦した。
1703年にはヴィラール公のドイツ方面フランス軍と共にウィーンを脅かした。しかし、ヴィラール公と衝突して優位を失ってしまった。1704年にブレンハイムの戦いで敗北、バイエルンは逆に蹂躙される結果となった。
ネーデルランド方面で雌伏し再起したが、1706年にラミイの戦いで再び敗北しネーデルランドも蹂躙される結果となった。
止む無くフランスに亡命。

△スペイン王 フェリペ5世

スペイン継承戦争と言うからには、本当は主役のはず。
しかし、実際にはハプスブルグ系王朝の後継者不在に乗じてフランス王ルイ14世が血縁者を王位に付けようとした思惑のマリオネットである。当時のスペインはそもそも連合王国であったこともあり、この継承は最初から波乱含みであった。
結果として、フランス対アングロサクソン同盟(英蘭)を軸として利害の絡んだ諸勢力が相次いで両軍に加わり欧州全土を舞台にした大戦争となった。
フェリペ5世は、フランスの支援を受けながら同盟側に参戦したポルトガルや、スペイン内部の反対派の諸王国と戦った。最終的に戦争はフランスが劣勢の状況で和睦に至ったが、同盟側が擁立しようとしていたカール大公が神聖ローマ皇帝に即位したため、今度は逆に神聖ローマとスペインの同王同盟が懸念されるようになり、結果としてフェリペ5世の即位は公式に承認された。
しかし、ネーデルランドやイタリアのスペイン領は戦争で失われ、スペインの力はこの戦争で少なからず衰えた。だが、国内的には連合王国の形から統一国家の体裁への前進も見られた。
その後、現在に至るまでスペインのブルボン王朝は存続している。

☆マールバラ公ジョン・チャーチル

所謂マールバラ公。
イギリスではスペイン継承戦争はアン女王が主導したので別名アン女王戦争とも言う。
フランス系のフェリペ5世の継承に反対するアングロサクソン同盟(英蘭)は大陸で部隊を集結させた。この総司令官を誰にするかで揉めたが、アン女王とジョン・チャーチルの妻が親しかったことからチャーチルが総司令官になった。
1702年秋、同盟軍を率いてミューズ川沿いで作戦を展開し、リエージュを奪取した功績でマールバラ公に叙せられた。
1704年、プリンツ・オイゲンと共にブレンハイムの戦いでフランス軍に重要な勝利を挙げた。
その後も積極的な作戦活動を展開して同盟軍の優勢を維持したが、1710年にアン女王と妻のサラの対立が深刻化し女王の支持を失い、また国家予算面で支援してくれていたホイッグ党が選挙に敗れ、政治・財政の両面で支柱を失った。
トーリー党の新政権はマールバラの資金着服疑惑を追及して司令官を解任し、イギリスはスペイン継承戦争から撤退する道を選ぶこととなった。
マールバラは、兵站計画に基づいた高い機動力で同時代の将軍を凌駕し、幾多の戦果を挙げた。しかし、その末路は政治的な不運に見舞われ、能力相応に報われたとは言えなかった。ホイッグ党の政権奪還後に名目的には復権を遂げた。

○プリンツ・オイゲン

オイゲンはオーストリア軍の将軍である。
スペイン継承戦争の開戦後、北イタリア方面で、カルピ、キアーリ、クレモナ、ルッサーラと相次いで勝利を挙げた。本国の財政支援確保のために総監職に就いて一時前線を離れるも、1704年にはマールバラ公と共にブレンハイムの戦いに勝利する。しかし、一気にフランス侵攻を成功させるには至らず、戦争は一進一退の様相を呈してしまう。
1708年にリーレ包囲戦を成功させるも、その後のマルプラケの戦いで大きな打撃を受け自身も負傷。
1710年にイギリスが事実上脱落すると苦境に陥ったが、オランダと共に戦い続けた。しかし、1712年にドゥナの戦いに敗北。さらに1713年には、ユトレヒト条約でオランダも脱落。オーストリアも止む無くラシュタット条約を結んでフランスと和睦した。
オイゲンは戦後はオーストリアネーデルランド総督に任ぜられ、その後も重要な立場に在り続け、オーストリアとトルコの戦争でも指揮を執りいくつかの軍功を立てた。マールバラ公と比べれば、幸せな晩年を送ったと言えるだろう。