ウォーオブザリングのゲーム的フレームワークに関する再考察

某所でFFGの「ウォーオブザリング」の概略を端的に語る話しになって改めて書いてみたのが、
「基本的にウォーオブザリングのフレームワークを誤解を恐れずにざっくりと書くならば、
サウロン側が能動的に仕掛けられるのはミリタリーキャンペーンであり、時間さえあれば必勝の体制にある。問題はその前に指輪を破壊されてしまうことであり、そのためにフェローシップの旅を妨害することが必要である。
フェローシップが能動的に仕掛けられるのは指輪を破壊する旅である。時間を掛けてリスクを回避しながら進めば成功率は高まる。しかし、その前にサウロン軍の前に世界が平伏してしまってはならない。そのためリスクを犯しても旅を急がなくてはならない。
という構図を元に、サウロンはタイムリミットを設定するためのウォーゲームをプレイしており、フェローシップは設定されたタイムリミットの冒険スゴロクをプレイしているゲームである。
こうして書いてみると改めてわかる通り、原作や映画もそうであった通りミリタリーキャンペーンは確かに重要であるが、真に勝敗を分けるのはフロドとサム、そしてもう一人の真に重要な脇役ゴラムの旅路であった。」
という文章。
こうやって改めて整理しなおしてみると、指輪物語をゲーム化する上での焦点となる構図がはっきりと見えてくる。その意味において、ミリタリーキャンペーンの部分がないICEの「フェローシップオブザリング」のようなゲームは成り立つが、逆にフェローシップの旅路のない純然たるウォーゲームとしての指輪物語の取り扱いというのは的を得ていないものになるであろうということも見えてくる。
思えばSPIの「ウォーオブザリング」も、基本ゲームはキャラクターゲームであり、それにミリタリールールを追加してキャンペーン化していたが、この作り方の妥当性というのが改めて実感される。