南軍側でチカマウガ戦で重要な将軍の二人目を挙げるとすれば、一般的にはロングストリートであろう。しかし、彼はブラッグと折り合いが悪かったことから、チャタヌーガ戦ではノックスビル方面に転戦させられており、後半戦に登場しない。
クリバーンは、トーマスと比較しても無名かも知れない。彼はアイルランド人であり、彼の代にアーカンサスに入植してきた。南北戦争に当っては、彼を受け入れてくれた南部のために従軍し、アイルランド人でウェストポイント卒業生でないにも関わらず戦場での優れた実行力で少将にまで昇進した。その実行力は同僚の間で評判が高く、「西のストーンウォール」とも呼ばれた。
このように優秀な将軍であったが、ブラッグは何を思ったのかチャタヌーガ戦の直前にクリバーンにノックスビル方面への転戦を命じた。その部隊が転戦するための列車に乗ろうとした時に、ブラッグはこれを撤回して呼び戻しミッショナリーリッジの北端に配備した。
北軍の攻勢は両翼に集中され、最右翼を守るクリバーンはシャーマンの主力部隊を迎え撃つことになったが善戦健闘して北軍の意図を挫くことに成功している。チャタヌーガ戦は最終的にトーマス部隊のミッショナリーリッジ登りで南軍中央が瓦解するが、この時にもクリバーンの部隊は秩序を持って最後まで殿軍として応戦し、南軍を全面潰走から救っている。
クリバーンはテネシー軍で最後まで勤め続け、フッドの無謀なフランクリン攻撃の最中に戦死している。彼は南北戦争の目的が勝利者となる北部によって奴隷解放の正義によるものとされ、南部の努力は全て反乱として扱われるようになるであろうと予見していた。このため、彼は終戦間際には南軍自ら奴隷解放を実施して、北部の一方的な主張に対する反証を築こうとしたとも言われている。この行動はデービス大統領の不興を買い、それが彼がさらに出世してテネシー軍司令官にまでならなかった理由だとも言われている。もしフッドでなくクリバーンがテネシー軍司令官になっていたなら、南北戦争の西部戦線は今少し混沌とした状況が継続されていたかも知れない。
実戦での有能さだけでなく、外国からの入植者として政治的にニュートラルな目で戦争をクールに判断していた点でも見識に長けていた稀有な南軍司令官である。彼が戦死せずに戦後のリコンストラクションに政治家として参加していたなら、また混沌とした南軍の末期の指揮系統についてニュートラルな視点での正しい情報を回顧録として残してくれていたならと思う。