ユリアヌス

bqsfgame2011-05-07

コンスタンティヌス朝の最後の皇帝。
コンスタンティヌス1世の甥兄弟の弟の方に当たる。
コンスタンティヌス1世の後継者には彼の3人の息子が当たることとなり、コンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンス1世の共同統治となった。しかし、コンスタンティヌス2世は、弟のコンスタンス1世に討たれてしまう。
こうした経緯もあってコンスタンティウス2世は猜疑心が強く、たびたび粛清を行った。この粛清によってユリアヌス兄弟は家族を失い、兄弟2人だけ残されて軟禁生活を送ることとなった。その後、ユリアヌス兄弟は首都に召還された。皇帝僭称者マグネンティウスがコンスタンス1世を下克上して帝国西方を奪ったのに対して、コンスタンティウス2世は兄ガッルスを東方を担う副帝に指名してマグネンティウス征伐に向かった。コンスタンティヌス2世は、イタリア、スペイン、アフリカを制圧してマグネンティウスを討ち、再び帝国の統一を回復した。ところが、帝国を回復するとコンスタンティウス2世は、再び猜疑心に駆られ副帝ガッルスを処刑してしまう。
ことここに至ってコンスタンティウス朝の血筋のものが残り少なくなり、ユリアヌスは再び治安の乱れるガリアを担当する副帝に任命されることとなった。
ユリアヌスは学問を成してばかりいたのであるが、ガリアの副帝として蛮族を退治して内政を良く治めガリアでは大変人気のある統治者になることに成功した。
ところが今度は東でササン朝ペルシャの脅威が高まり、コンスタンティヌス2世はユリアヌスに兵の供出を命じたのである。
しかし、ガリアの兵たちはコンスタンティウス2世の下へ転属となることを良しとせず、ユリアヌスこそ真の皇帝であると推戴するに至った。こと此処に至ってユリアヌスも覚悟を決め、自ら皇帝としてコンスタンティウス2世との対決を覚悟する。
これを聞き東方からユリアヌス討伐に立ったコンスタンティウス2世であったが、決戦を前に病没してしまう。これによりユリアヌスは、コンスタンティヌス朝の最後の皇帝となったのであった。
唯一の皇帝となったユリアヌスは、東方の大敵、ササン朝ペルシャを討つための大遠征を準備するが、首都クテシフォン攻撃まで進んだものの失敗し、敗走する途中で傷を受け、それが元で死んでしまう。
ユリアヌスは副帝も置かず、また親族もなかったため、遠征軍は執政官であるヨウィアヌスを皇帝に立てペルシャと屈辱的な和議を結んだ上で撤退することとなった。ユィアヌスも撤退中に病死したとも事故死したとも言われる。
画像はアンカラに立っているユリアヌス皇帝訪問記念柱。