なつかしの昭和プロレス:ジャイアント馬場

bqsfgame2011-12-15

大木金太郎より9つも年下、1938年生まれなのが日本の主砲、ジャイアント馬場
馬場がジャイアンツに投手として入団したのは、知る人ぞ知る話し。3試合しか登板しなかったが、入団当時の長嶋茂雄とキャッチボールしたことから、後々まで親交があったと言う。ちなみにリングネームのジャイアントは、ジャイアンツ選手だったことから来ているとの説がある。
巨人を自由契約後、大洋に拾われかかったがケガで断念。野球生活を止めて力道山門下に入門。そして三羽烏としてデビュー。同時期のデビューだから若手時代は猪木と頻繁に対戦しており、実は16勝0敗なのだそうだ。これが後々まで馬場が猪木を格下と見なし続けたバックグラウンドになっているのだろう。
力道山死後は、三羽烏の中でもキャラクターが一番立っており、アメリカマットでの実績もあったことから後継エースとして処遇された。
幹部の素行問題などで迷走する日本プロレスの状況下、日本テレビの後押しにより全日本プロレスを作って独立する。これが馬場のレスラー人生の最大の転機だったろう。
全日本プロレスは、当時のアメリカのプロレス最大団体であったNWAとの太いパイプラインを誇示して猪木の新日本プロレスとの差別化を実現。順調な滑り出しをすることができた。日本プロレス残党との合流については、大木のところで述べた通りで、事実上の救済合併だったようだ。
ジャックブリスコを破って日本人初のNWA王者になったのは歴史的な快挙。盟友であるハーリー・レイスと幾多の激闘を繰り広げ、二度に渡ってレイスからもNWA王者を奪っている。都合3回のNWA戴冠は、当時の日本のプロレスの世界的な地位を考えると空前の快挙だろう。
猪木は馬場に対する挑戦を幾度となく打ち出したが、若手時代の戦績、世界王者としての実績などから自分と猪木は格が違うと言う認識だった馬場はとうとう対戦を受けることがなかった。実現していたらどんなファイトになったかは、両者の全盛時を知るオールドファンの空想の中にだけ存在している。
ストロング小林が持っていたIWAヘビー級連続防衛回数を、PWF防衛回数で突破した辺りから馬場は後継への自然禅譲を意識していた節がある。PWFをハンセンに奪われた頃からメインイベントから姿を消し、ラッシャー木村とのファミリー商会で、永源、大熊、渕らの悪役商会とエンターテイメントマッチを展開するようになった。
晩年は癌との闘病生活、1999年に亡くなった。20世紀の日本プロレス界の巨人だった。
晩年は解説席に座ることもあったが、非常にリーズナブルな解説で、自分の弟子を身びいきしないところが好感が持てた。鶴田の世界挑戦試合などでは、特に辛口のコメントが目立ち、弟子にもっと成長して結果を出して欲しいと言う気持ちが良く伝わってきた。
とかく社会人としての常識センスに欠ける人物が少なくないプロレス界にあって、社会人として会社人として常識を持っていた稀有な人材でもあったと思う。