なつかしの昭和プロレス:山本小鉄

bqsfgame2011-12-29

1941年生まれのレスラーに山本小鉄がいる。
往年のプロレスブームの時代には、新日本プロレスの中継で解説者として古館アナウンサーと名コンビを組んでいた。解説者として非常に記憶に残る人物だと思う。
山本小鉄は横浜のY校出身。ちなみに筆者はY校の崖の上の清水ヶ丘高校出身なので、ローカルな親密感を感じる。商業高校卒業後に就職して会社勤務の傍らボディビルで体を鍛え、日本プロレスの門を叩いた。体が小さかったため力道山に断られたらしいが、諦めきれずに再三の挑戦を繰り返して力道山を根負けさせて入門。結果的に力道山の最後の弟子となった。
星野勘太郎とのタッグチームでアメリカマットで修行中に活躍、小柄ながら馬力のあるファイトぶりからヤマハブラザースのニックネームで人気を獲得した。
力道山死後の日本プロレスにあっては、早くから猪木一筋で行動を共にしたことで知られる。猪木追放事件の際に、選手会で猪木追放の選手投票が実施された時に只一人で反対票を投じたことで知られる。
猪木追放事件の真相について問われた時に、山本は事実関係には答えなかったが、「あんなことがあろうがなかろうが猪木と馬場が袂を分かつのは時間の問題だった」とコメントしたと伝え聞く。両雄並び立たないことは、当時の関係者にとっては自明のことだったのだろうか。
新日本プロレス旗揚げ後は若手を指導する立場となり鬼軍曹として恐れられた。後のプロレスブームを支えるメンバーの多くが山本にシゴかれて若手時代を過ごしている。あの前田明が、道場で練習していて山本のキャデラックが到着する音にビクビクしていたと言うのだから相当なものだったのだろう。
反面、若手に厳しい練習量を課す一方で自分もその練習をこなして見せるなど、指導者として筋の通った人物だったと言う。その結果、弟子の多くは恐ろしかったと言いつつも山本を慕っている。
1980年に38才で若くして引退した。病気などではなく、猪木に「プロレスの技の痛さ、凄さをきちんと伝える解説者が要る」と請われての現役中止だったと言う。さすれば、後の古館との名コンビの成功振りを考えるに、アントニオ猪木の狙いは100%成功したと言えるのではないだろうか。
話しが戻るが1979年に実現した夢の三団体オールスター戦では、緒戦のバトルロイヤルに参加。最後は全日本のバリバリの若手だった大仁田をカナディアンバックブリーカーで担ぎ上げてリングを走り回ってギブアップを奪い優勝を飾っている。まだまだ元気で、引退するような状態ではなかったのである。
猛練習の鬼軍曹だったので、練習不足の選手に対しては非常に辛辣だった。初来日当時のハルク・ホーガンについて、受身も取れず、使い物になりやしなかったと一刀両断したのは山本くらいのものだろう。プロレスブームの頃に華やかになった学生プロレスについても、トレーニング不足で危険と警鐘を鳴らしていた。
解説者であると同時に審判部長を勤め、事情のある試合ではレフェリーもやっていた。新国際軍団対猪木の3対1ハンディキャップマッチでは、サブレフェリーとして新国際軍団のカットをタックルで止め、現役バリバリのレスラーに体力的に引けを取らないところを見せてファンの喝采を浴びた。
昨年10月に家族旅行中に倒れてしまい、そのまま還らぬ人に。
お別れには弟子たちだけでなく団体の垣根を越えたプロレス関係者が集まり、前述した山本を恐れていた前田明が弔事を読んだ。当日のニュースステーションでは盟友であった古館市郎が、「本当にお世話になりました」と挨拶をした。山本の生前の活躍と人柄を知る者にとっては感慨深い見送りとなった。
最後になるが、武藤が売り出し中に海外修行からの帰国第1戦で藤波と戦った時に、「帰国第一戦で団体のエース級の選手とやらせてもらえるなんて幸せですね」と語り、「山本さんもやってみたかったですか?」と古館に水を向けられると、いつも謙虚な山本にしては珍しく「ボクだって体が大きかったら猪木選手や坂口選手とやってみたかったですよ」とはっきりと答えていたのが印象深い。
ちなみに昭和プロレス研究室の記録を見ると、第2回のワールドリーグ戦に山本は参加しており、この時に猪木、坂口と対戦して敗北している。山本の記憶から抜け落ちていたのか、こうした全員参加イベントではない場面でのマッチメークを意識して発言していたのだろう。第2回のワールドリーグ戦は、筆者も見ていたが、件の猪木対大木や大木対坂口で荒れたシリーズだったので、山本の試合が放送された記憶はない。会場で生で見た人しか知らないと思うのだが、一体、どんな試合振りだったのだろうか。