小沢一郎の盟友だった人たち

bqsfgame2014-09-02

野中氏の著書にあるのだが、小沢一郎の政治手法の最大の問題点は盟友だった人たちをどんどん切り捨ててきたことと言う主張がある。これは実感として賛成できる。
野中説によれば、最初のそれは恩師である「金丸信」を切り捨てたトカゲの頭切りだという。佐川急便事件で世論の批判を浴びた金丸を切り捨てることで生き残ったと言うのだ。
その次が経世会分裂になる。竹下派七奉行は2つに分裂し、この時に小沢は羽田孜を立てて改革フォーラム21を旗揚げする。これによって、「小渕恵三、橋本竜太郎、梶山静六、そして野中氏」らと袂を分かった。そして、自らを改革派と呼び、対立勢力を守旧派と呼んで世論を煽った。これが「対立軸の魔術師」小沢一郎の出発点だろうか。
自民党を離脱して新生党を作り、これで挑んだ総選挙で自民党過半数阻止に成功。ここで、日本新党の細川代表を担いで非自民政権の成立を果たす。ところが、政権奪取に成功すると、新党さきがけの「武村正義」と対立し、公明党市川雄一書記長との一一ラインを軸に主導権争いを開始する。党内抗争は最終的に細川首相に小沢か武村かの選択を強いることとなり、結局、「細川首相」は混迷に失望し辞任してしまう。
細川辞任の非常事態に、盟友羽田孜を後継首相に立てて事態打開に取り組んだが、新党さきがけに続いて、社会党外しを画策したのに「村山社会党」が連立離脱を決断。羽田政権は早々に行き詰った。
羽田内閣総辞職後の新首班指名では、自民党の渡部美智雄の担ぎ出しが噂されたが実現せず、当日に飛び出したウルトラCは自民党時代に幹事長として支えた海部元首相だった。このウルトラCは、あわやと言う所まで行ったが失敗に終わった。
かくて村山首相の自社さ連立政権が誕生し、小沢一郎は初めて野党暮らしになった。この時点で共産党を除くオール野党で、新・新党ならぬ新進党を結成。党首には海部を据えて、自分は幹事長に就任した。
だが、度重なる傲慢な政治手法から、羽田、細川ラインが小沢外しに動きだし、これを察知した小沢は自民党時代からの盟友である羽田と絶縁、党首選で羽田を破ってついに自ら党首になった。当時、政界のプリンスと言われた「船田元」は、この時に羽田陣営について小沢から離れた。これに対して、「羽田孜」は、竹下派七奉行の一人である「奥田敬和」や小沢側近だった「熊谷弘」らと太陽党を結成して離脱した。
太陽党の離脱で勢力を弱めた小沢新進党は、自民党の反主流勢力である亀井グループらと連携する保保連立構想を新たに志向するようになった。
しかし、これに対して自民党離脱時の理念であった二大政党制を追及する勢力として「鹿野道彦」らが党内で新グループを形成する。新進党が自身の意を体現する一枚岩の政党として機能しないと見た小沢は、再び党を割って新たに自由党を結成する。この時に、最後まで小沢を信頼して「男と男の約束があるから」と言い続けた「米沢前民社党委員長」は切り捨てられることになった。また、竹下派時代から行動を共にしていた「岡田克也」は、最後まで解党に反対し、この時点で袂を分かった。
当所、自由党は野党グループの中で行動したが、やがて自社さ連立に変わる保守系連立を志向して自民党接触し始める。この時に自民党側の交渉マンだったのが、因縁の野中氏であった。
最終的に小渕政権の自民党と自自連立が成立し、小沢は再び与党に復帰する。この時に自由党から入閣したのが、幹事長の野田毅であった。
かつての一一ラインの関係もあって、最終的な連立の姿は、自自公と言う形になった。思えば自民党側の狙いは、最初から自由党ではなく公明党だったのかも知れない。それとも、小沢が公明党を利用して自分たちも連立に参画したのか。
連立成立後に、小沢は自民自由両党の解党後の合流による保守大合同を提案する。しかし、既に多くの盟友を裏切ってきた小沢に対する自民党側のアレルギーは強く、自民党は応じることはなかった。それに対して小沢は連立解消カードをちらつかせ、時の小渕首相の心労は日に日に色濃くなっていった。最終的に小渕、小沢会談は物別れに終わり、連立は解消。そして、直後に「小渕首相」は脳梗塞で死去した。
だが、この連立解消の意思決定は自由党全体で動けず、結果として連立維持派は保守党を新たに結成して小沢と袂を分かつことになる。この時に、「海部俊樹野田毅二階俊博小池百合子」らは保守党側に残って、小沢と分かれた。
自由党は再び野党として活動しだしたが、過去の経緯もあり民主党とは関係良好とは言えなかった。だが、此処で小泉旋風による郵政選挙でオール野党は窮地に陥り、事態打開のために垣根を越えて新たな大きな野党を作るしかないと言う流れになる。この流れに沿って民主、自由両党は合流することとなった。
合流した新・民主党では小沢は雌伏することとなった。自由党勢力から幹事長になった「藤井裕久」が自由党勢力の利益に沿って動かないことから自民党時代からの長い関係にも関わらず亀裂が生じた。止む無く党内での発言権拡大のため旧・社会党系の横路グループに接近したりもした。新たなる盟友探しである(笑)。
民主党は、年金未納問題で菅直人が、続いて衆議院選敗北で岡田克也が、さらに堀江メール問題で前原誠司が代表を退いていった。そして、選挙に強いと言う小沢神話から小沢待望論が高まるのを待って、ついに党首に就任。その期待の通りに大量の小沢チルドレンを当選させた。これにより衆議院では民主党が、参議院では自民党が多数派を占めるねじれ国会が現出。この打開のために福田総理から小沢党首に大連立の打診があり、小沢はこれを民主党に持ち帰ったが反対にあって拒否せざるを得なかった。ねじれ国会が継続する中、小沢党首は一旦は再選されたのだが、西松建設事件で秘書が逮捕されて辞任に追い込まれた。後継党首に、この時期の盟友である鳩山由紀夫を支持し実現した。
鳩山党首は、衆議院選で勝利してねじれ国会を解消、再び非自民政権を実現した。小沢の長年の宿願であった政権交代可能な二大政党制の到来かに見えた。
盟友鳩山首相の下で幹事長となった小沢だったが、小沢の元秘書、現秘書が相次いで逮捕されるに至って鳩山は辞任を決断、一緒に小沢も辞任することで事態収拾を図った。
民主党政権菅直人首相の時代に入り、上述の経緯から脱小沢路線を明確にする。しかし、参議院選で敗北し、党勢は退潮に転じて行った。このため、次の党首選では小沢待望論が浮上して小沢が出馬し、菅直人と党を二つに割る激戦となった。この激戦下で、かつて小沢の盟友と言われた「渡辺恒三、石井一らは菅直人陣営に」付き、党員票でも菅直人に大差を付けられ敗北した。
鳩山らと共に党内非主流派に回った小沢は、東日本大震災への菅直人政権の対応の鈍さを理由に菅直人政権を下ろすことに成功した。しかし、後継党首選では支援した海江田万里野田佳彦に敗北してキングメイカーとしての力がないことを露呈した。
野田政権が消費税増税閣議決定したことに反対し、またしても分党、国民の生活が第一を結党した。しかし、盟友と呼べる存在で同行したのは山岡賢次東祥三くらい。後は小沢チルドレンと呼ばれる一回生議員が大半と言う所帯になってしまった。
衆議院選に向けて嘉田滋賀県知事の日本みらいの党と合流したが大惨敗。選挙後に「嘉田党首」らみらいの党勢力は離党した。このため、生活では小沢側近の森裕子が党首を引き継ぎ、その後、結局、小沢一郎党首の姿に戻っている。ちなみに、現在では山岡、東、森らはいずれも落選中である。
此処まで、「」付きで記述した部分が、袂を分かったかつての盟友と言う整理であるが、それにしても此処まで離合集散を重ね、多くの人と別れてきた政治家は他にいないだろう。
小沢側近と言われた人は優秀な人が多く、野田毅二階俊博自民党で活躍している。民主党では、かつて小沢が支援した海江田が党首になっている。現在は雌伏しているが小池百合子だって、再浮上の可能性がある。
また、公平を期すために注釈するならば、小沢が盟友を利用したと言う側面とは逆に、盟友側が時の権力者だった小沢を利用したと言う部分もあるだろう。だからこそ、これだけ多くの登場人物が、過去に多くの人を切った事実があると判っていながら小沢の下に寄り添ったのではないか?
画像は現在の盟友(?)、谷亮子。彼女はいつまで盟友でいられるのか?