オランダ東インド会社が大同合流した一つの株式会社なのに対して、イギリス東インド会社は同じ時期に同じ地域で活動した複数の会社の総称です。
当初はオランダと同じくインドネシアやマレーシア方面で活動しましたが、アンボイナ事件でオランダにイギリス商館が襲われてから東南アジアを撤退して、インドへと転進しました。
イギリス東インド会社の拠点は、ベンガル(カルカッタ)、マドラス(チェンマイ)などの東インド圏と、ボンベイ(ムンバイ)などの西インド圏になります。1757年にフランス東インド会社が支援したベンガル太守軍をプラッシーの戦いで破り、フランス東インド会社をインド圏から排除し、ベンガル太守を傀儡政権化して支配を確立しました。以後は、会社と言うより植民地管理政権としての色合いを帯びます。
イギリス東インド会社も株式会社でしたので、プラッシーの戦いに勝利したことで投機銘柄となりました。その結果、会社は本国の投資家に高配当を要求され、植民地で圧政を揮うようになりました。最終的に、インド植民地は1857年のインド大反乱(旧名:セポイの乱)で全面蜂起するに至ります。イギリス政府は、この事態は東インド会社の管理能力を超えると判断し、直接介入に至ります。これにより、事実上、イギリス東インド会社は終焉を迎えることとなりました。会社は、配当処理残務を終えた1874年に正式に閉鎖され、274年の長い歴史に幕を閉じました。