大北方戦争を俄か勉強する後編

bqsfgame2014-10-23

1700年、デンマークはゴットルプ公領へ侵入、ポーランドは呼応してリガを包囲した。これにロシアも参戦を表明して火蓋は切られた。
後に北のアレクサンドロスと呼ばれるようになるカール12世は、まずデンマークに狙いを付け、イギリス、オランダ艦隊の支援を受けてデンマークの首都コペンハーゲンに進出デンマークを同盟から脱落させる。
この頃、ロシアは(最近ウォーゲーマーの間で有名になった)ナルヴァを包囲したが、なかなか陥落させられなかった。11月の末、極寒の海を越えてスウェーデン軍はエストニアに上陸、吹雪の中を自らの3倍のロシア包囲軍を強襲して撃破した。これが、世に言う「ナルヴァの戦い」である。ナルヴァと言えば、WW2ではなく、この大北方戦争の戦いを指すのがコモンセンスだそうである。この時のロシア軍の規模は、資料が乏しいが3万程度とされ、その過半が死傷、捕虜で失われた歴史的大敗北だったそうだ。
デンマーク脱落に続いてロシアが大敗北を喫し、北方同盟は瓦解状態にあった。ここで停戦することも可能だったが北のアレクサンドロスは戦争継続を決定、リガを包囲するポーランド軍を次の目標に定める。1701年夏、スウェーデン軍は最後の敵であるポーランドザクセン同盟軍をドヴィナ川の戦いで撃破する。
ポーランドのアウグスト2世は停戦を求めるが、カール12世はこれを拒否しワルシャワへと進撃、アウグスト2世の退位を要求する。アウグスト2世は止む無く軍を集めて抵抗するが、これもクリシュフの戦いで撃破された。最終的にポーランドは、スタニスワフ1世を選出するが、彼はスウェーデンの傀儡に過ぎなかった。

これで戦争は終わったかに見えたが、スウェーデンの転進で息をついたロシアのピョートル1世は敗北から多くを学び、大規模な軍再編と軍制改革を実施して強力な軍を構築した。再興なったロシア軍は、スウェーデン軍に圧力を掛け続け、1703年に後にサンクトペテルスブルグと呼ばれるようになるネヴァ川河口の城塞を奪取する。
ピョートル1世は、ポーランド国内のアウグスト2世支持派の動向を見ながら和議のタイミングを見ていたが、スウェーデンがサンクトペテルスブルグ一帯の返還を求めたことから成立しなかった。
最終的に1707年、カール12世はロシア遠征を決意する。此処に、ヒトラーよりも、ナポレオンよりも早く、ロシアに止めを刺すべくモスクワを目指した指導者がいたのである。
ポーランド領から東進を始めたスウェーデン軍に対して、ロシア軍は焦土戦術を取って敵の補給を枯渇させる作戦に出た。この作戦は成功し、スウェーデン軍はポルタヴァの戦いを迎えるころには兵力は出発時の3分の1程度にまで消耗していたと言う。
ポルタヴァの戦いでは、数で圧倒的なロシア軍が激戦を制して勝利した。
ポルタヴァの戦いでのスウェーデンの敗北は決定的な物であり、ポーランドではアウグスト2世が復位、またデンマークも再び参戦した。
大北方戦争は、それでもロシアの拡大を懸念するオスマン帝国スウェーデン側に立って参戦して継続された。ピョートル1世のオスマン帝国侵入は、オスマン軍によりプルト川の戦いで撃破された。しかし、オスマン帝国とロシアの戦いの結果は、スウェーデンの退潮を覆すようなことはなかった。戦争は強国スウェーデンの崩壊が生んだ空白を巡って混乱した形で継続するが、スウェーデン対北方同盟の戦争としてはポルタヴァの戦いで事実の決着が付いたと言ってよいようである。
こうして俄か勉強してみると、なかなかどうして大北方戦争は展開のダイナミクスにおいても、登場人物の魅力においても、7年戦争や30年戦争と比べても見劣りしない迫力があるという気がするがいかがであろうか?
「ナルヴァ」と言えば、WW2ではなく、大北方戦争‥を合言葉に、しばらく宣伝して歩こうかと思っている(苦笑)