×世界ノンフィクション全集:千の太陽より明るくを読む

亡父の形見から2冊目。

 前回書いた通りで亡父の存命中にも一度読んだものです。本書は全集の第19巻に当たります。

bqsfgame.hatenablog.com

 副題は「人間と科学」です。
 このテーマは範囲が非常に広く、ノンフィクションの傑作も多数あります。なので、「千の太陽より明るく」はダイジェスト収録です。
 調べてみると、同書のコンプリート版で現在入手可能なものは、現時点で絶版のようです。アマゾンのマーケットプレイスでは、平凡社版が4000円で出ていました。なので、今となってはダイジェストとは言え貴重なものとなっています。念のため地元の図書館も検索しましたが、コンプリートなものは蔵書にありませんでした。名著といえども、読めなくなることが当たり前なのですね。国会図書館に行くしかないのでしょうか。
 本書は、原爆の出発点であるウラニウム核分裂連鎖反応の観測が主題となります。欧州の各国の大学、研究機関での先陣争いが激しかったことが判ります。この時期の重要人物としては、「オッペンハイマー」に登場したニールス・ボーアが重要だったことが良く判りました。また、彼が多くの欧州学術者のアメリカへの移転に重要な役割を果たしたことも判ります。一つには彼の拠点がデンマークにあって、ドイツとのアクセスが良く西側へのバックドアとして機能していたこと。もう一つは彼の人柄にあったようです。
 本書はダイジェストであることもあって、「オッペンハイマー」が活躍するマンハッタンプロジェクトについては、あまり記述が詳しくありません。さすがにトリニティ実験については紙幅を割いて丁寧に書いていますが。
 本書の見解としては、「ドイツが原爆を開発するかも‥」というのは西側の妄想に近かったのではないかとの立場です。むしろ、ソビエトが早い段階で原爆の可能性に注目するリスクの方が大きかったという記述が目立ちます。

p10
 コペンハーゲンの電信嬢などはニールス・ボーア教授の研究所から自分たちにはまるでチンプンカンプンの数学の公式でいっぱいの電文を、イギリスやフランスやオランダやドイツやアメリカや日本に正確に打信するのにしばしば苦労したほどである。
 当時、原子研究の地図には三つのおもな中心があった。ケムブリッジ、コペンハーゲン、ゲッチンゲンである。ケムブリッジでは、ラザフォードが気の荒い短気な王様のごとく、彼によってはじめて開かれたあの最も極微の次元の国に君臨していた。コペンハーゲンでは、かの明晰そのもののニールス・ボーアの口を通して、小宇宙のびっくりするほど新奇な謎の王国の法律が発布されていた。ゲッチンゲンでは、マックス・ボルン、ジェームス・フランク、ダヴィット・ヒルベルトの三執政下、おりしもイギリスで新たに発見され、デンマークで正しい説明が加えられたと信じられていたすべての事象にも即座に疑問符が打たれたのである。
p13
 その時代の最も年少気鋭の参与者の一人だったアメリカ人ロバート・オッペンハイマーは後日次のように書いている。
「われわれが原子物理学と言っているもの、すなわち原子構造の量子論と呼んでいるものは、今世紀の変わり目に第一歩を踏み出し、二十年代に発達し、完成した」
p18
 このゲッチンゲン大学はその真の名声をなかんずく数学者たちに負うている。カール・フリードリヒ・ガウスが19世紀中葉までここの講壇に立ち、ゲッチンゲンを科学という科学の中の最も抽象的な学問である数学の中心としたのである。
p24
 最も遠い大陸まで探求されつくした地球上にはもはや獲得すべき何ものをも見いだせなくなった冒険家たちは、競って原子物理学を目指して殺到した。
p25
 毎週の授業の華ともいうべきはボルン、フランク、ヒルベルトが「無報酬かつ演習形式」で行った「物質論ゼミナール」だった。たいていヒルベルトが「では、諸君、どうで、言って見てくれ給え、いったいぜんたい原子って奴は何ものなのかをね?」と素朴な質問を発することで幕が切って落とされた。
 毎回ちがった学生がそれを説明しようと試み、そのたびごとに新しくこの問題を取り上げては別の回答を出そうと試みた。ところでもし若い天才の一人が込み入った数学的な説明の中に逃げ込み始めると、きまってヒルベルトプロイセン訛りで腰を折るのだった。
「さっぱりわからんね。もう一度すっかり説明しなおしてくれんかね。」

 1926年の冬学期に、一人のやせた病身らしいアメリカ人の学生がこの討論でひときわ頭角を現した。彼はいきなり一瀉千里に全論述を即席にすらすらと述べたてることがあったので、ほとんど周囲の者はだれもそれに言葉を出せなかったこともしばしばだった。(中略)この青年の名前は世界的に知られることになる。「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーその人だったのである。

p29

 アメリカの学生は、ドイツの大学に見られる官僚的な形式主義にどうしてもなじめなかった。彼がドクトル試験の許可請願書を提出したとき、ゲッチンゲン大学を管掌しているプロシアの文部省によって

オッペンハイマー氏の提出した請願書はまったく不備極まる。本省としてはかかる請願を却下せざるをえなかったことは理の当然だった」

p34

 この二人の学生(アトキンソンとホウテルマンス)は退屈しのぎに戯れ半分、頭上に燃えている太陽がいったいどこからエネルギーを得ているかという永らく未解決の問題をもち出した。物質とエネルギーの交換可能についてのアインシュタインの公式以来、われわれの頭上にある巨大な天体の実験室でおそらく原子の変換過程が怒っているのではないかと人間は予想しはじめていた。

p38

 この町の指導的新聞、市民的な「ゲッチンゲン・ターグプラット」紙はすでに年来はなはだしく右翼的な立場を取り、他のドイツの国粋主義的な新聞がまだ相当に対しその態度を明確にしていなかった時分に、いち早くヒトラーを救世主に奉りはじめていた。

p40

 褐色のシャツの学生たちが特にねらいをつけたのは、ポーランドやハンガリアからドイツへ留学して来ていたユダヤ人やユダヤ系の学友たちだった。

p47

 騒々しい政治的狂信主義が学問研究の本来なら静かなるべき世界に侵入していたこの時代に、平和と相互の寛容の孤島がまだ存在していた。それはコペンハーゲンのブレークダムスヴェ十五番地にある大学付属理論物理学研究所であった。ここにはあらゆる国民、あらゆる人種、あらゆるイデオロギーの物理学者たちが依然として師ニールス・ボーアのまわりに群れ集まっていた

中略

 まだドイツで暮らしている数多くの原子科学者たちはその頃、前もって頼んだおぼえもなかったのに、突然郵便受けにボーアからの招待状が入っているのを知った。「われわれのところにおいでください。ひとまず当地に滞在になって、それからどこへ赴かれたらよいかを静かにお考えになってはいかがですか」

p57

 1933年秋にアインシュタインプリンストンに新設された高等学術研究所に住居を移したとき、フランスのランジュヴァンが預言したことは真実となった。

「これは、法王庁がローマから新世界へ移ったほどの大事件だ。物理学の法皇がご遷都になる。アメリカは自然科学の中心になるだろう」

p96

 のちにハイゼンベルクはこう語った。「1939年の夏には、まだ12名の人々が申し合わせることによって原爆の製造を防止することができたはずだ」

p105

 前略

 ドイツ国内にある酸化ウランの99%までが他の軍機関の手でいち早く買い占められていることが判明した上、その期間はどうしてもそれを再び引き渡そうとしなかった。というのはその軍機関では、この重金属の合金によって戦車を破壊する弾丸を作れると期待していたのである。

p116

 ボーアはユダヤ系として身の危険にさらされていたにもかかわらず、依然デンマークの首府にとどまっていた。なぜなら彼は、自分の居ることが彼の研究所の「非アーリア人」の研究者たちにとって唯一の支えだと知っていたからである。