○ゴーレム100を読む

bqsfgame2008-07-10

まず事実誤認のお詫びから。ベスターの後年の作品は訳されていないと書いたが、昨年、実はこのゴーレム100が国書刊行会から出版されていた。
それにしてもコメントに困る作品だ。ベスターの作品でなければ、さらりと感想を書いて終わるのだが。どうしてもベスターの作品となると、そういう観点で見てしまうので評価が難しくなってしまう。
ベスターの長編は死後にゼラズニイが書き継いだサイコショップを除くと以下の5作品。
1953:分解された男
1956:虎よ、虎よ!
1975:コンピューターコネクション
1980:ゴーレム100
1981:デシーヴァー
最初の二長編でベスターは伝説になってしまった。第一回のヒューゴー賞を受賞し、オールタイムベスト10に入る作品を書いてしまった。そして、SFから離れてしまい、生きたまま伝説になってしまった。
問題はその後である。生きた伝説がSF界に戻ってくることになり、SFファンはそれ相応の期待をして彼の作品を待ち望んで読んだ。残念ながら20年近い歳月を経て復帰したコンピューターコネクションは期待に応えられなかった。
さて、此処で観点の問題だが、果たしてベスターの水準が落ちたのだろうか? それとも、ファンの期待が過大だったのだろうか?
わたしはコンピューターコネクションのときには前者だと思っていた。ところが、本作を読んで少し見解が変わってきた。実はベスターはそれほど変わっておらず、ファンの方が勝手に過剰な期待をぶつけていたのかも知れないと思うようになってきた。
コンピューターコネクションにしても本作にしても、虎よ虎よ!と比較すると物足りないと思うのだが、もともとベスターはこんなものではないのだろうか。それは先日の願い星、叶い星の印象も加え合わせてそう思うのだ。いずれの作品の時も出版社の付ける惹句は凄いのだが、それは出版社のセールストークだから止むを得ないとして、そのセールストークも基本的には「あのベスターの作品だぞ!」という点を一番プッシュしているような気がする。逆に言えば、過去の伝説に依存して売るのが今のベスター作品の売り方になってしまっているように思う。
実のところ、コンピューターコネクションであれば、サイバーパンクを予見したベスターの先見的長編と言う惹句であれば違った読み方ができたように思う。本作にしても、ベスターの得意テーマである悪魔召喚や超常感覚を近未来の連続変死事件のミステリーに織り込んで彼特有のタイポグラフィー実験を究極まで推し進めた実験的長編と言う惹句であれば、その通りだと思うし、その通りだから別段文句を言う筋合いではないような気がする。
ところが、昔のベスターの伝説を引き合いに出されてしまうと、どうしても虎よ虎よ!に匹敵するようなものを読ませてもらわないとフラストレーションが溜まってしまうのだ。
本書が好評だったらデシーヴァーの訳出も考えられると言うことが解説には書いてあるが、もし訳出するときには出版社は中身に相応の惹句で提示することを是非とも考えて欲しい気がする。
今更ながらだが、上述したとおり悪魔召喚と超常感覚という得意アイデアを盛り込んだ近未来のニューヨークの連続変死事件を扱ったミステリーで、その内容でどうしてこんなに分厚くなるのかと思わせるが、厚さを苦にせず一気に読ませてくれる佳作である。ただし、佳作であって傑作とまでは呼びにくいので、伝説の男の復活長編という風に構えて読むと噛合わないだろうと言う気がする。