アクロスザポトマックへ向けて:ユーエル

bqsfgame2009-12-27

承前

アクロスザポトマックの時期の南軍は、大きな指揮系統の変更の直後にあった。
1863年春のチャンセラーズヴィル戦役で、リーの片腕であったジャクソン将軍が戦死した。その結果、リーは配下の2個軍団の内のジャクソン指揮下だった第2軍団を二つにわけ、大きな方の新第2軍団をユーエルに、新第3軍団をAPヒルに指揮させることとした。
この二人の新軍団長は、いずれも戦争の前半をジャクソン指揮下で戦い、ジャクソンの輝かしい戦歴の実務指揮官として活躍した。その活躍はいずれも昇進に値するものと見られていたが、それにも関わらずジャクソンの抜けた穴を埋めることはできなかったとする見解が一般的である。

●リチャード・ユーエル

ウェストポイントを13位の成績で卒業し、米墨戦争前線指揮官として活躍した。南北戦争では第一次ブルランから戦闘に加わっており最古参の部類に入る。怪異な容貌だが部下には人気があり、仕事ぶりはアイデアに満ちていたと言う。半島戦役から第二次ブルランまで活躍したが足を負傷して後方へ退いた。復帰したのはチャンセラーズヴィル戦役からであり、戦闘中にジャクソンが重傷を負った段階で臨時の第2軍団長の候補として挙がった。正式には戦役後に中将に昇進してから軍団長となった。
問題のゲティスバーグ戦では、初日に北軍のレイノルズが戦死したことでチャンスを得ながら、リーからの弾力的な攻撃命令を受けて攻撃しないことを選択した。その結果、北軍はハンコックによる防衛陣地の構築の時間を得ることができた。これが二日目の苦戦、さらには三日目の破局を生んだものとして、歴史的な結果を知る後年の歴史家の後知恵としては南軍の敗北の遠因を生んだとされる。
しかしながら、ゲティスバーグ会戦は両軍とも十分に想定していなかった遭遇戦であること、初日の戦闘が非常に激しく戦場は混乱していたことは疑いない。さらに、リーの命令が弾力的な表現であり、「可能なら攻撃せよ」というものであったため、「可能でない」と判断したこと自体が明らかに間違いであったと証明できない以上、ユーエルの消極的な行動は命令違反とまでは言えない。
この点について歴史家は、もしジャクソンが生きていたなら、この弾力的な命令によっても攻勢に出ていたのではないかと主張し、それとの比較においてユーエルは消極的であり責任があったとしている。
しかしながら、本件については、ジャクソンでなく新任のユーエルが指揮を執っていることを承知していたリーが、必要ならもっと明確な命令を出すべきであったとも言える。
ジャクソンとロングストリートという優秀な軍団指揮官を持っていたリーは、弾力的な命令を与えて部下の臨機応変さに委ねることで成功を収めてきた。しかし、それはジャクソン不在の1863年の夏には、片肺飛行となった北バージニア軍では成立しなくなったのだと言える。
ユーエルは重傷からの復帰後は以前より能力的に問題を生じていたとする説もあり、オーバーランド戦役の途中でリーにより解任されたのは、その欠陥が露呈したためだとも言われている。そうだとすれば、ゲティスバーグでの不決断も同じ問題であったかも知れない。しかし、それはジャクソンが失われ、その地位にユーエルを持ってきた陣容で北部大侵攻を実施していたことそのものの問題であると言える。